東名高速の袋井市鷲巣という地、上下車線とも走行中に北側をチラっと見れば「久野城」という親切な看板が小山に立っている風景が目に入ります。
きっと古くからこの地の山の木々には鷲が巣を作って上空を舞っていたことでしょう。
城址は六所神社の南東側の小さな山(鷲巣上公会堂南側)ですが地図を拡大していけば城、段丘や曲輪の感じが良く掴めます。(詳細はここにおまかせ)
駿河今川氏の遠江への侵攻拠点として、久野宗隆に築城させたのが始まりで時代は1500年前後です。
歴代城主は廃城まで
①久野(久能とも)宗隆-元宗-宗能(一旦下総佐倉城へ)→
②松下之綱-重綱→
③(再び)久野宗能-宗成→
④北条氏重 と入れ替えがありました。
二代目久野元宗は桶狭間で今川義元と討死。
その子宗能は今川から徳川配下に鞍替えし、遠州各地(掛川城攻略、高天神戦)を転戦し小牧・長久手等で功をあげて当家の名を後世に残す元となりました。
下総佐倉に転封後、久野宗能の嫡子宗朝が徳川秀忠御付の京都で短慮から刃傷沙汰を起こして久野家改易の沙汰となりましたが隠居していた久野宗能が再び関ヶ原で功をあげて久野家旧領であるこの地に戻ったという経緯です。
その後宗朝の次男宗成が嫡孫相続し伊勢田丸城に転封し紀州徳川配下として明治維新を迎えています。
さて松下之綱は槍の名手といわれますが秀吉の一番最初の主君として有名ですね。
当時の松下家は今川家臣の家臣程度の家で藤吉郎はそのまた家臣という下っ端時代を当家で過ごしていました。
要はその遠州の混戦状態の今川家臣団を早々に見限って尾張織田に主人を求めたところが秀吉の先見の明の秀たるところだったわけですね。
松下之綱は第一次高天神城の攻防では徳川方として籠城し開城後秀吉の長浜城に呼び出されたといいます。
増田実氏による資料には二名の「松下姓」を見ることができますがおそらく違う人物の様ですね。尚「松下姓」はここ牧之原地区にも多く見られる姓です。
城持ちの大出世を成した秀吉は過去の恩を忘れずに松下之綱を呼び入れて恩人として報いたというところはいい話です。
久野宗能が久野城を去ったのは徳川家関東移封でそのあと秀吉の命で収まったのが松下之綱でした。
その子松下重綱が跡を継ぎ関ヶ原を迎えますがやはり先見の明、東軍に付いて石田三成を敵に奮戦し功をあげます。後、城内改築(石垣)の咎により久野城より転封させられました。
画像を見ての通り湿地帯を思わせる平山城で、まるで武蔵忍城を連想させるような小規模な城です。
ただし城内、遺構はある程度うかがい知ることができます。
各所に案内板が建てられていますが本丸跡など草ぼうぼうで夏など入り込むのは少しばかり苦しいところ。
城内案内板より
「小字名の「西堀」「南堀」等が示すように城の周囲に水堀を備えていたようである。昭和54年10月1日に市指定文化財に指定されるとともに、近年の発掘調査によって屋根瓦や陶磁器などが発見されている。」
看板の後ろ側から南方を撮った画像には今話題の「シンドラーエレベーター」袋井工場、また南西方向には磐田のヤマハスタジアムが写っていました。
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