歴女(レキジョ)によるかつての戦国武将一番人気は石田三成と云われていました。
先日の関ヶ原の笹尾山(場所はここ)にいた3人組の歴女は宇喜多秀家について熱く語っており、新旧交代かと思わせましたが、これらは私の知らない世界(バーチャル=ゲーム)からの連想なのでしょう。
ゲーム等の彼らには抜群のカッコ良さで描かれて、現実の男どもの持たざる彼女らの想う夢を持っているのでしょう。
一番オイシイ思いをした完勝の達者、肖像画の風貌から「狸オヤジ」とも揶揄される徳川家康に対して三成の惨憺たる結果と無能説は武蔵忍城水攻めの失態に留まらず枚挙にいとまがありません。
そして同じ豊臣恩顧の諸武将に総スカン、挙句の果てに関ヶ原でも日和見・裏切りで孤立敗退ののち六条河原で斬首(斬首=罪人)。
最後まで付き合ってくれた武将は自前配下の軍と一部のお友達ら、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊くらいでした。
敗走の三成は伊吹山経由で自領、近江国小谷山の谷口から高時川(姉川の支流で妹川)の上流の古橋村に向かい、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠しましたが結局は田中吉政の手によって捕縛されてしまいます。(経緯は諸説あり)
さて、当流「真宗本廟(東本願寺)」では来年「教如上人四百回忌法要」が勤まります。顕如上人の長男「教如上人」こそ今の「お東」の元となる方でありますね。(参考 教如上人譲状)
慶長五年(1600)関ヶ原開戦の9月15日から三成不在の佐和山城落城の18日頃、三成が逃亡経路とした伊吹山を南に望む美濃は「国見岳」の山中(場所はここ)でやはり三成と同様に偶然にも洞窟に隠れていた人がいました。
その人が教如上人です。
教如上人は同年の7月から関東下向の旅に出ていました。
勿論、教如上人は親家康派の武闘派でしたが、現状顕如上人三男、弟の准如さんに本願寺の継承を秀吉の意向で譲らされてからほとんど浪人身分。
当然腹積もりとしては家康に付いて元の鞘に収まろうという気持ちはあったでしょう。
関東行きは関東諸寺院、ご門徒お見舞い、挨拶を表向きに家康への畿内での三成不穏を訴えての下向だったと思います。
三成としても旧主人、秀吉の意に介すことなく隠居もせずに活動している教如上人に腹が立っていたワケで、それが見え見えの家康行脚。
ここで三成は一気にキレて「教如上人抹殺指令」を配下に出したのです。
江戸へ向かう上人を取り逃がしたためにその帰りを墨俣の渡し場で待ち伏せしていました。
執拗に追い立てる三成勢に対して、教如上人を必死に守る地元門徒勢でしたが一時は現岐阜県安八郡安八町森部の光顕寺(場所はここ)の須弥壇に隠れて辞世の句まで記したほどの窮地でした。
その地をも脱して近郷関係十五村の二十ヶ寺が教如上人死守の護衛団(土手組)を屈強の者たち80余名で組織し途中加勢があったり追撃を受けたりで死にもの狂いの山中逃避行の結果、例の洞窟に辿りついていたのです。
関ヶ原の結果、一気に形成逆転、三成は逆に洞窟で捕縛されて教如上人は近江長浜へ無事下山して帰京しました。
「本願寺」としての最大の敵は仏敵信長でしたが「東本願寺」に限定すれば最大の敵は石田三成であり最大の恩人は徳川家康という図式が出来上がります。
石田三成の戦下手、人心掌握術の拙さは関ヶ原直前の「人質作戦」で細川忠興の正室、玉子―細川ガラシャ(明智光秀娘)を不本意ながらも死に追い込むという大失態を演じ、東方のみならず西方の武将たちにも大ひんしゅくを買ったあとも、対家康に集中すべき時に一人の浪人坊主(教如さん・・・失礼)を執拗に追い掛け回すなど、言ってみれば女子供と坊さんを追及するといった姿勢は三成の狭量で狡猾な感覚というものを思わせてしまいます。
当時から江戸時代に至ってまでも、(幕府の反三成の宣伝を差っ引いても)「三成無能論」を生んだ理由となったでしょう。
ましてや石田三成は豊臣恩顧の武将たちに殺されかかって大坂を追われたところを京都で家康に救われたという経緯がありましたので助けた家康側としては「恩知らず」と罵ったとしても無理は無いでしょう。
拙寺も東本願寺、大谷派の寺ですので敗者の美学石田三成と雖も東軍家康の勝利に感謝しています。
まぁ教如上人が三成に殺されたとしても准如さんの本願寺として東西の分流は無かったのかもしれませんが。
所詮タラレバですね。
教如上人 幻の(殺されなかったので) 辞世の句
「散らさじと 森辺の里に 埋めばや
影は昔のままの 江の月」
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匿名 (金曜日, 05 12月 2014 20:40)
石田嫌いなので、面白かったですww 石田好きな女も男もどっちも嫌いです。石田なんかを崇め奉って、優秀とか英雄とか言ってる奴ら、馬鹿じゃねーのって思いますwwww
今井一光 (金曜日, 05 12月 2014 21:25)
ありがとうございます。
大河ドラマ「官兵衛」でも三成の偏屈さが強調されて描かれていますね。
おそらく「三成人気」はもはや過去のもの。凋落ぶりも激しいでしょうね。
ドラマでは官兵衛が主役ですので、三成の偏執だけでなく家康の腹黒さも同時に描いていますが・・・。