駿河国と遠江国の境界線、大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」ともよばれた通り、雨でも降って増水ともなれば足留めとなってそうなればどうにも渡ることはできませんでした。
江戸時代は橋の無い河川は各所に設定されましたが、これは想定される駿府や江戸に東上しようとする外様西軍軍勢への対処―天然の「堀」としての機能を期待したものでした。
このことは旧体制の「負の政策」と思われがちですがこのような「規制」(橋を作らせない)というものには全大局的な物流という観念を無視すれば地元への経済的恩恵は計り知れないものがありました。
川を渡るためのシステムに組み込まれた役所と川を渡るための手配(立会人)や川越人足、食事を供したり旅籠等の関連施設に従事する人たちが双方の岸に集まって活気ある宿場町を構成していました。
川越人夫は島田、金谷双方に350人が常時待機していたそうですが、大井川の川越人夫の立場は、藩府直参の下級官吏でしたので今でいう国家公務員。
何にでも「規制」してその管理をすることは一部の人々が利益を上げられるということは現在も同様です。
お国がかかわる規制解除のための免許発給等のシステムがそれですね。
昨日記した蓬莱橋の如く、「橋を作る」ということは利便性や生活の質を向上させるために必要不可欠ではあったもののその架橋によって多くの失職者を発生させて、今までの形での利益は上げることが出来なくなってしまいました。
そこで牧之原台地の茶業開墾へ橋の完成によって仕事を失った人々がその橋を使って台地に上がり大きく貢献していきました。
それと同様に明治になってからその下流にも橋が懸けられました。
駿遠線自体は大井川区間の渡河橋を残して両岸までは開通していました。
大井川に鉄道橋を架橋するには大きな資金が必要だったため道路橋上に「人車軌道」という人力で動かす路線を作ったそうです。
またこれは当時、重量に耐えうる橋を作る技術が無かったということですね。
その後鉄道橋が追っかけ作られるわけですが、戦時中は駿遠線の相良地区へ向かう藤相線は都会より買い出しにくる人々の賑わいで大いに繁盛したそうです。
しかし結局は廃線の憂き目となったことは御存知の通り。
トラック物流に圧されたことは言うまでも無いことですが、何より劣化した大井川に懸る橋の再建資金の手当てができなかった事が1番の理由だそうです。
しかし戦時中の満杯輸送の売り上げは何処に吸い上げられてしまったのでしょうか。橋建設の資金が残せなかったのか疑問です。
駿遠の人々の「昔」を回顧する話の中でこの駿遠線を懐かしむ声はとても多いですね。
資金的に維持が出来なかったことは決定的ですが、今のこの辺りの面白みの無い状況を考えるとあの路線の喪失は心残りですね。
またもう一つ残念な話が「東海道線」敷設の案が出たときに大井川付近の魚業関係者から「漁獲量が減る」というクレームが多く出て路線地域が内陸の旧宿場地区となったといいます。
もし海岸線に東海道線が通っていたら現在の様な人口減少は無かったでしょうね。
画像は東海道岡部宿の石標。
駿遠線はブツブツの路線が繋がって成立しましたが最高区間延長されたときの「駿河岡部」駅があった岡部宿。(場所はここ)
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小山 昭治 (火曜日, 30 10月 2012 08:53)
駿遠線 懐かしいなー。
大井川の鉄橋はデッキにぶら下がりながら
風を受けていました。
家を6時に出て藤枝でJRに乗り換え
静岡駅から自転車で静商へ。
3年間よく通ったものです。
(時々はさぼりましたが)
静鉄の株を持っていたため
株主優待券で乗車は無料でした。
配当金ももらったようです。
利益は株主だけに回ったんでしょうかね。
今井一光 (水曜日, 31 10月 2012 00:10)
ありがとうございます。
今あったら相当楽しい思いができそうですね。特に西の方向への便が無いため今あれば重宝かも。
しかしきっと車で走るときは踏切だらけでイライラさせられるのでしょうね。
あのころ株主優待を受けられるとは相当のお金持ちを想像してしまいます。
そういえば当時、駿遠線開通の支援者として本通りの顔役の名が連なっていました。