行きがけの駄賃 刈谷城 岡部元信

昨日記した静岡空港南側の現牧之原市の「切山と勝間田」の地名は永禄三年(1560)68日付の岡部元信宛の「今川氏真判物」に記されています。

桶狭間(永禄三年5月19日)で滅した主君の今川義元の首と引き換えに鳴海城を信長に明け渡し駿府への帰り際に刈谷城(場所はここ)を焼き払った勲功を讃えたものです。

 

「今川氏真判物(はんもつ)

 

駿遠両国内知行勝間田 并(ならびに)桐山、

        内田、北矢部内、被官給恩分等事

 

右、今度於尾州一戦之砌(みぎり)、大高・沓掛両城相捨てると雖(いえど)も、鳴海城堅固、持ち詰めし段、其以粉骨至也。

雖然(しかるといえども)、依無通用(通用無きにより)

得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰え(あまつさえ)、苅谷城 以籌策(ちゅうさく~謀略をもって)、城主水野藤九郎其外随分者、数多(あまた)打捕、城内悉(ことごと)く放火、粉骨所不準于他也 

彼本知行(勝間田、桐山、内田、北矢部内)有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、(数年来没収していたといえども、褒美として還付せしめるところ) 永不可相違(永くあい違わず)、然者如前々可令所務(しからば前々のごとく所務~役目~すべき)、守此旨、弥可抽奉公状如件(いよいよ奉公抽くべきの状くだんのごとし)。

 

理由は不明ですが鳴海城城番の岡部元信の知行地は召し上げられていた様ですね。

ところが今回の手柄にそれらの所領を返却して安堵するという氏真の感状でした。

 

牧之原市勝間田、桐山、に続く内田とは菊川から掛川にかけての地名で大澤寺が相良に訪れる以前の本楽寺があった地域です。北矢部とは静岡市。

 

「苅谷城 以籌策(ちゅうさく~謀略~をもって)」というのが伊賀衆(忍 しのび)の差配のことです。

岡部本体(苅谷は寄り道になります)の後詰待ちの斥候急襲部隊100名程度の活躍。

 

また「刈谷」の地名表記は最近になってのもので以前の文書などでは苅屋、雁屋など「谷」では無く「屋」でした。

 

刈谷城は三河でも尾張との国境で知多半島の付け根東側。

三河湾奥深く入り組んだ「衣ヶ浦」という湾なのか河川の出口なのか微妙な地域で、かつての「湿地帯」が推測できる場所です。三河湾にそそぐ河川と三方を堀に囲まれた平城で別名を亀城(きじょう)と呼びます。

城町という地名が残っています。