義元 よしもと 尾張鳴海城

篤い厚い大阪人に対して経験上たまたまではありましょうが場所を聞いて冷たくあしらわれた尾張鳴海城探し。

現地周辺の方々にとっても超マイナーな史跡なのでしょうか。

ようやく辿りつけば付近の住民限定の散歩程度ができる小さな公園。丘の上の住宅地の中にありました。

駐車場すらありません。

城の歴史を伝える遺構は見当たらず上記石標がかつての城址を伝えるのみでした。

ただ近くの通りで見た地名が「根古屋」。

古の地名がここにも健在でした。「尾張誌」という文献には四方に掘、二の丸、三の丸にも堀を廻らしていたということが記されているとのこと。

今やその面影はまったくありません。

 

 永禄三年(1560)桶狭間で今川義元が討たれた時、岡部元信が今川方の在番としてこの鳴海城に入っていました。

のちの高天神城、武田方の城将となった駿州、岡部出身といわれる岡部元信の(高天神城墓碑はこれ)は、今川義元家臣団の中、指折りの猛将と伝わります。

敵国深く最前線の鳴海城を拠点にして織田方と戦いつづけ、今川義元が討たれた後、殆どの今川勢は敗走する中、彼ひとり徹底抗戦し続けますが、「主君義元の首と引き換え」という条件を提示して鳴海城を開城し駿河に退去しました。

駿府へ帰還する途中、行きがけの駄賃にと刈谷城、水野信近を討ち取って城を焼き払ったことで有名な武将です。

 

さて、同じヨシモトでも大阪でその名は言わずと知れた「なんば花月のよしもと」があります。

今回の大阪バスツアーの二日目(フリータイム)は、大阪城方面行脚の方は私を含めて5名でした。

 残りの方々は31名、そのうち25名は、なんば花月よしもと演芸場で過ごしていました。

そうです、今回の拙寺のバスツアーのポイントは「歩きと笑い」でしたね。昔よりそんなことは言われ続けていますがこれこそが健康維持の秘訣であると私も思っています。

 

岡部は暗愚の将と言われた義元の首と引き換えに城をあけわたし、そしてその怒りの矛先を帰路に爆発させて大義を通すという大業をやってのけましたが、ここ大阪の「よしもと」新喜劇の座長の一人、辻本茂雄は大阪ではその名を知らぬ人はいません。

 

 彼は今でこそ大阪喜劇界で不動の地位を築きましたが、最初から喜劇界に入ろうとしたわけでは無かったのですね。

高校時代からアマチュア自転車競技界で名を馳せ競輪選手の道を歩むかと思っていた矢先、交通事故にあい検査をしたら腫瘍が見つかって競輪界を断念したという経緯があります。

「挫折したって道はある」のお手本みたいな人ですね。

根っからの才能はあったと思いますし滅多にない成功話ですが彼のその若いころ味わった悔しさは筆舌に尽し難いものがあったことでしよう。

現在私はこの人座長のよしもとドタバタ喜劇だけはハマリつつあります。関東地区ではTV放送していませんがね。