金閣、銀閣、飛雲閣は京都国宝三名閣。
金閣、銀閣はそのお寺(鹿苑寺・慈照寺)に行って拝観料さえ支払えば簡単に見ることができますが飛雲閣の拝観は少しばかりそれらとは異にします。
スグ行って何となく見に行くことはできないのですが、かといって京都のど真ん中、西本願寺の境内にあるのです。
東・西本願寺に「拝観料」という考えはありませんのでこの飛雲閣も無料で見ることはできますがまず大抵は事前に予約しなくてはなりません。尚「特別拝観」という日も設定されています。
今回も事前に予約しておりましたので、東本願寺参拝の後、直行いたしました。
お西は夥しいほどの文化財が今も健在です。
何しろ御影堂も阿弥陀堂も重要文化財に指定されているくらいです。
つくづく火災は怖いものであると感じてしまいます。
一瞬にして灰燼に帰してしまいますから・・・。お東の建造物が明治以降のものであるのはその理由です。
そういえばあの時(禁門の変)長州藩士が匿われたのが西本願寺でしたね。
今回は飛雲閣と南能舞台、対面所、虎渓の庭を拝観いたしました。
飛雲閣は秀吉の作った聚楽第からの移築と云われておりますが私個人の趣味では国宝三名閣の中で一番趣があって好きですね。
三層楼閣建築の第一層が入母屋と唐破風の左右非対照。
アンバランスな調和とでもいいましょうか桃山建築の粋が結集されています。中には入ることができませんが毎年5/21・22は「特別の特別」(宗祖降誕会~お西)という日があってそちらで催されるお茶会に出席できる手筈も残されています ただし御懇志の返礼という立場をとっているようです)
池が空間を隔てていますが当然に小舟で渡って入るのが正式。
よって「舟入の間」からが入路となります。また一番偉い人の居る一層は招賢殿、八景の間があります。その上に人があることがあり得ない(部屋を作れない)ということから二層目の「歌仙の間」、三層の展望台、「摘星楼」(てきせいろう)をバランス良く配分して上層部としています。摘星楼は(手で摘み取れるほど)「星がすぐそこ」に見えるという意です。
「歌仙の間」は三十六歌仙が描かれていることから名づけられましたが現在見られる絵はレプリカです。
ホンモノは大事に収納してあります。
増築された明るい茶色の建造物は茶室、憶昔(いくじゃく)と呼ばれこちら単体で重要文化財です。
南能舞台は現存する能舞台としては、日本最大のものとして、重要文化財に指定されています。
向って左側の橋の長さが通常の能舞台よりも長く役者の間(ま)が取りずらいことから役者泣かせと云われます。(画像はありません)
毎年5月21日の宗祖降誕会には、観世流による祝賀能が演じらるとのことで、詳細はまったくわかりませんが御懇志寄進者へのご招待があるそうです。これは飛雲閣茶会のご招待と同様です。
対面所は二百三畳敷きの大広間で上下段の境の欄間に「雲中飛鴻」の彫刻があるので鴻の間ともいいます。
柱の間隔が奥に行くほど狭く、逆遠近法といって奥に座る人が大きく見えるような造りとのこと。
段上正面が門主の座で、向って右の上々段付書院と違棚のある間が時の権力者の鎮座する場所です。
向って左側の朱色の飾りのある戸の後ろ側が寺侍の控えるいわゆる武者隠しとの説明でした。
この部屋の中から、能舞台ではお決まりの松の絵が確認できますが一旦部屋から出てしまうと見えなくなってしまうというイリュージョンが体験できます。
これは逆光と敷き詰められた白砂の反射の効果だとのこと。(画像はありません)
中国廬山の麓を流れる虎渓を模した虎渓の庭は江戸時代初期に伏見の朝霞志摩之助の作庭。御影堂の大屋根を「廬山」とみたてた借景としています。
尚、上記画像は①東本願寺阿弥陀堂工事現場からの図です。
本願寺11代顕如さんの長男教如さんの開いた東本願寺から三男准如の西本願寺(右側)と次男顕尊の興正寺(左側)を望みました。
お西のお堂の配置は京都駅側から見て御影堂―阿弥陀堂の並びとなっていてお東とは逆になっています。
他の画像は羽田氏によるものをお借りしました。
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