田沼街道のどちらが始点なのか終点なのか、相良と今の藤枝とを結ぶ7里(役27㎞)の街道は田沼意次が整備しました。
今は無き、50歳以上の人しか知らない駿遠線藤相区間と同じコースです。
東海道の宿場町としての格上藤枝か、老中田沼が整備した相良が主役かなどとどうでもいいことを思ったりしますが、徳川家康が死の床の要因になった「鯛の天ぷら」を駿府で食べて藤枝田中城で発症し駿府で亡くなったのか、田中城で食べて駿府で発症してそのまま寝込んだのかもどうでもイイことです。
しかし天下の大御所様の死に直接かかわるという不名誉を嫌ったのか田中城下屋敷へ移築された本丸櫓の掲示板には「駿府で食べて田中城で発症そして駿府で亡くなる」という「設定」がされていました。
今川配下一色氏築城の徳之一色城は武田の攻略によって田中城という名に代わりその地名が今に残っています。
以前のブログにも何度か記させている田中城は平城なのに難攻不落の威容を誇っていました(下屋敷の場所はここ)。
武田、馬場信房により増改築された田中城を家康は天正三(1575)から天正十年まで7年間かかっています。それも穴山信君の勝頼に反する二心が開城のきっかけでした。
さて、家康の田中城好きは有名で駿府からの鷹狩行脚のベースやら駿府城改装時などの宿泊地として田中城に滞在していました。
しかし武田信玄そして織田信長や秀吉もこの田中城に投宿しています。
信玄は駿河侵攻、一色城落城後田中城に改めてここに滞在し、信長は天正十年の武田氏滅亡の折、甲州からの帰り途、田中城に一泊、秀吉も天正18年小田原征伐の際、ここに泊まっています。
本丸には2層2階の物見櫓が高さ9尺(2.7m)の石垣の上に建っていたとのこと。
こちらは田中城下屋敷に移築されています。駐車場料金、入場料、入館料すべて無料です。
屋敷内には茶室や中間部屋等の建物も移築されています。
画像は中間部屋、厩(うまや)と物置の隣です。
周辺には武田方築城術の名が。
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