今川氏真の駿府今川館は永禄十一年(1568)甲斐武田信玄による所謂「駿河侵攻」によって駿府が蹂躙されてからその後家康が入るまでは荒廃したままだったでしょうね。
武田の駿河侵攻作戦以降、一旦武田領となった駿州、今川館跡は比較的内陸にあるために甲州勢にとってまったく興味が無かったのかと思います。
「駿河侵攻」は信玄と家康による密約(大井川以西を徳川領、以東を武田領にする)によって双方で切り取り今川家を挟み撃ちにして一蹴しようという策略の一貫でした。
氏真がその器量について周辺国から相当見くびられたのは父親の前領主今川義元が信長によって桶狭間に討ち取られたあとの領国経営の混乱ですね。
一番の動揺要因は家康の独立でしょう。
これまではてっきり今川家臣団の一人として尾張からの橋頭堡となって戦ってくれるものと思っていたことは違いないところです。
それにより尾張織田信長への父義元の弔い合戦が一層遠くなり家臣団への面目が保てなくなってしまいました。
古来より憤死した父や領主の仇を討つという「大義」は第一義でしたからそれに着手できない姿を見せつけることは他国からも同族からも家臣団からも見くびられる要因となってしまいました。
信玄の駿河侵攻のタイミングは今川家4代に渡ってその存在感を表した寿桂尼の死がきっかけとなったでしょう。
「死しても今川の守護たらん」と遺言したといいますが彼女が亡くなった直後に今川家が滅亡したことは皮肉です。
信玄の侵攻に際しては、事前からの信玄の調略があり、よって今川家臣団は戦わずにして総崩れ、今川館を追われた氏真は朝比奈泰朝の掛川城に逃げ込みます。今度は家康によって掛川城は包囲されて今川家は滅亡します。
甲駿間の武田方の仲介者は南甲州河内の武田家一族の穴山信君が執り行っていましたので切り取った駿州に居残ったのは当然というか穴山信君で清水湊にそそぐ巴川沿いの江尻城(小芝城)に入りました。
駿府では無く湊のある江尻というのが武田家念願だった夢、「武田水軍」を強く念頭においたものだった表れだと思います。
駿府侵入の翌年永禄十二年(1569)、現在の清水江尻小学校の場所に江尻城を築き城将穴山信君は本格的な城(観国桜~かんこくろう~と称しました)としての改装を行いました。
天正十年に徳川の手に落ちて1601年に廃城になるまで甲州と大井川を超えて一時は領国化した高天神城をはじめとする遠州各城の補給基地として働きました。
昨日の長島城址と同様に小学校として姿を変えることによってその面影を残している城です。
また現在も「二の丸」と呼ばれる地名が残っています。
小学校の正門が「本丸門」ですからね。
神社は穴山信君創建の稲荷神社。
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