松の木の続きで長島城址に残る松の大木を紹介します。
城の形態が山城であれば早期に廃城になっていたとしても案外当時の面影は推察でき遺構も残っていたりしますが平城だと殆どが住宅地となってまずは何も残るものが無いという感じですね。(焼津小川城)
岡崎の六名城など住宅地になっていて跡形も残らずまったく判別不能です。
しかし相良城、藤枝田中城の様に役場や学校等の公共機関が後に建てられたりすると比較的その形が推測でき、また何がしかの紹介や掲示板、石標の類が残ります。
こちら伊勢長島の一向一揆の激戦の場、長島城は現在長島中部小学校になっていますが城の遺構の代表はこの松です。
長島城は文明年間(1469~87)伊勢国安濃郡長野氏系一族と云われる伊藤重晴の築城と伝わります。
蓮淳が長島の願證寺に入って以来一向宗門徒の力が拡大すると伊藤氏は滅ぼされて長島城は当地真宗の拠点となりました。
信長の大量殺戮により一向宗が殲滅された後、江戸期に入ってからは菅沼氏→松平氏を経て増山正弥(ましやままさみつ)が元禄期に長島藩二万石の藩主として入ってその後明治維新を迎えました。
城の遺構としては内堀の機能であった長島川と本丸南西方向にあったクロマツの大木があります。
樹齢三百年を超える見事な松でその小学校のグラウンドの隅に元気に立っていました。
松らしい枝振りで市民に大切に管理されているという様子がうかがえました。あの伊勢湾台風の水害にも耐えたといいます。
長島の願證寺にても紹介させていただきましたがこの地は大河の注ぎ込む低湿地帯で、古くから洪水と闘ってきた場所でもあります。
有名な伊勢湾台風(昭和34年の台風15号)は一時は894hPaまで発達、空前絶後のスケールで絶大な被害をもたらしたことで有名ですが小学校の正門脇には当時の「高潮の水位」の標識があり改めて自然災害の恐ろしさを推すことができました。
画像の最後は真宗寺院蓮生寺に移設された長島城大手門です。
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