法華堂、白旗神社址(現在の社殿は昭和45年のもの)の頼朝の石塔から約100m東側の並びに三浦一統のやぐらがあります。
このやぐらは観光用の掲示板も無いので何気ない散策ではまず見落としてしまいます。
先日記しました大江広元らの三つのやぐらから、頼朝の石塔方向へ戻らずにそのまま階段を降ります。
階段を降りるとテニスコート2面以上の広場に出ますが右側の斜面下部にポッカリと口を空けたやぐらが確認できます。
ここには頼朝の墓標から上がる山道を辿って大江広元らのやぐらを経由してから階段を下りましたが、西御門の住宅地からも直に上がって来ることもできます。
源頼朝の墓は江戸時代後期の建立の墓で、その背後の三つのやぐらも当時の意図で建立した実態のない象徴的なものだと仮定して考えれば、「鎌倉時代」よりもずっと時代は新しいものという(とはいえここは頼朝の持仏堂のあった山ですが)イメージとなってしまいます。
しかし、この三浦一統のやぐらは鎌倉時代初期からこの地に残る遺構といわれています。
三浦氏は三浦半島を治めた御家人ですが、その繁栄は保元・平治の乱で源義朝に従って戦うものの平治の乱での義朝の敗戦時に、敗色濃くなった戦場を離れることにまんまと成功し、上手く帰還できたことですね。「敗走 京都から相模」などと簡単に記しますが命からがらのヘトヘトでその後の事を考えれば安堵している暇は無かったでしょうね。
由比ヶ浜の和田合戦で敗死した和田義盛もこの三浦一族ですがこの一統は分流も多く枝分かれした血脈は各地で別姓を称したりそのまま三浦姓を名のったりで後世に続きました。
何と言っても当家の功労は石橋山の本戦には遅参したものの挙兵して惨敗した頼朝の敗走を手助けして安房に逃がし、これから本格化する源氏巻き返しの再挙兵機会を提供したことでしょう。
頼朝の死後、次から次に北条氏による粛清と画策によって有力御家人は消えていくのですが最後に残ったのがこの三浦家でした。
当主の三浦泰村も北条執権体制に対して腹に据えかねるものがあり対抗意識を燃やし執権を名ばかりの職とするために将軍職の権威復権について動く気配を現したため結果、当然のごとく鎌倉市中は戦場となりました(宝治合戦)。
戦線は早々に北条有利に動き三浦泰村率いる三浦本流一統はこの地、頼朝の持仏堂に籠城し一族郎党もろともに約500名が自刃したといいます。
この絶滅劇の中には後世になって長州勢によって墓が整備された(大江広元ら三やぐら)広元の四男、毛利季光(妻が三浦泰村の妹)、そしてその季光一族も合流していました。
この季光の四男が安芸に赴いて戦国時代、中国地方を覇した毛利家の祖となったといわれています。
画像は薩長勢の威信をかけて造作されたであろう頼朝の法華堂裏の墓所(三つのやぐら)から降りてきて振り返って見た図です。
鳥居手前左側にこのやぐらの口が開いています。
この辺りで一族五百余名が自害したのだと簡単にいいますがこの小さな墓所には入りきれそうもない数ですし、まともな弔いもされていなそうな「忘れ去られた」放置墓のように見えます。
ほとんどこの一帯が墓だとすると当時は長い間、人が立ち入るような場所では無かったのでしょう。
勿論今はすぐ下に鎌倉の高級住宅地が広がります。
最後の画像は「筋替橋」の石標。この標識の北側に三浦泰村の屋敷があったと云われ、文言は宝治合戦に触れています。
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