「勝てば官軍、負ければ賊軍・・・」は江戸末期に民衆から生まれた狂歌が元となって諺化して以降、世間で口にされるようになったものです。
幕末の戊辰戦争で薩摩藩・長州藩主体の軍が佐幕軍に勝利して、明治政府となり、そのままその思想がずっと今の今まで「続いている」とは決して言いませんが、そのベースとなって脈々とその精神が受け継がれているという考えはまんざら荒唐無稽とは言い難い気がします。
まぁそのことはさておき中世、官軍としての最高権威職(征夷大将軍)、「鎌倉殿」と呼ばれた源頼朝はその出自系統に果たして本当に正当なのかという異論、ご指摘はあろうものの「源氏長者」、武士の棟梁であることは後世誰もが認めるところであり、その地位の継承を憧れて「我こそは」と名乗りをあげては栄華を誇り、雌雄を決して滅びていくといった連続の流れが日本史上の主軸となって、それに枝葉がついて文化が開くといったことが我らが認識している「歴史」だと思います。
鎌倉西御門の頼朝の墓は「1779年の薩摩藩主島津重豪による建立」です。
「何だってここにこれが?」と疑問が生じるところであります。
頼朝の石橋山(小田原)の戦いでは、その御持仏たる観音像を髻(もとどり)の中に結いこんで戦ったといわれており、法華堂(白旗神社)は頼朝の死後にその極小の観音像を安置して持仏堂を建てたのが始まりといいます。
法華堂前の階段を上がった山の中腹にある島津家で建てた頼朝の墓の右隣にはこんな石碑が・・・
「元祖島津豊後守忠久石塔道」
そしてこの石塔の後方2時方向の斜面の道を50mほど行くとこれら三名を主とした三つのやぐら形式の墓所に行きあたるのです。(上記右の画像)
中心に鎌倉幕府の政所初代別当「大江広元」、その左側には大江広元の第四子で後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる「毛利季光」(当ブログ4/27既出)の墓が、そして右側には頼朝の子で島津氏の祖といわれた戦国九州の覇者、「島津忠久」の墓があります。
18世紀後半に建てられた五輪塔ですが、まるでその後の「薩長同盟」を示唆しているような仲良しぶりなのです。
大江広元―毛利の関係はわかります。毛利元就の「元」は広元の「元」、広島の「広」は広元の「広」からとったのだとも聞きますしね。
しかしそもそも大江広元の本来の墓地はここではありません。
鎌倉十二所の大江広元邸のあった明王院の裏山にあるものが昔から広元の墓だと伝わっていますから、わざわざここ(頼朝―源氏長者の裏山)に新築したというのは何かの意図が窺えます。
そこに頼朝との関係が無さそうで有りそうな島津家がやってきて3名のお墓が並んだわけですね。その後その流れが合して明治という時代を凌駕したのですから因縁とはこんなものなのでしょう。
それでは私の想うところ。
島津も毛利も関ヶ原西軍で反徳川、結果は負け組。
煮え湯を飲まされてギリギリのところで生き延び外様の遠国をいいことに力を蓄えて虎視眈々と雌伏。そして幕末を迎えたというのは歴史の通り。
大政奉還という一気呵成に動き出す以前に彼ら(薩長)がここに来て彼らの元祖と云われる者の墓を建てる意味は、今でいうイメージ戦略だったのかと思います。
それにしても関ヶ原後の家康の幕府開幕に当たっての画策は滑稽でしたね。
江戸幕府を開くに必要な征夷大将軍の権威を認めさせるには「源氏長者」たる大義名分が必要だったのです。
よって家康は自らの祖、松平家初代、松平親氏の先祖を「清和源氏流新田氏」の流れであると家系図を捏造したというのが通説です。それまでの藤原氏流をコロッと源氏に変えました(支配者たるものその正当性を主張するために家系図を作り変えることなどは日常茶飯事でしたし、歴史に詳しいそれ~家系図捏造~を専門に行う職人もいたようです) 。
このことはほとんど他者に見え見えの捏造と思いますので、その作られた「御先祖様」の権威によって将軍としての威勢をふるわれて厳しく支配を続けられている方の気持ちとしてはイイ気分ではなかったでしょう。
そこで両者はさりげなく、墓所建立追善供養という大義にのっとってそれ以上の大きな大義―「我らこそ源氏の本流」(少なくとも今の徳川将軍家よりも・・・)を、まずは世に知らしめようとしたものがこれだった・・・などと思っています。
「墓地の建立」「葬儀施主」はその後継者たる者を意図し、周囲に主張するものですから。
やぐら画像は大江広元、島津忠久、毛利季光そして毛利家やぐら内部右側に並ぶ五輪塔です。
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