昨日は瀬名姫の父親の関口親永が若き主君、今川氏真に腹を切らされるハメになったいきさつを簡単に記しましたが、関口家は当主今川家の分家筋にあたり当然に将軍家である足利一統、分家筋でもあるわけです。
家紋は「丸に二つ引両」で源氏出自の足利家特有の紋。
氏真の代で名門今川家の滅亡となりますが、桶狭間のドサクサによって元康(家康)が今川家を離反したことがそのきっかけにはなっているものの、氏真が短慮に走って駿府に残った三河の人質を斬り、譜代重臣の関口家を親永の切腹以後も邪見に扱うなどという大将の器量にあらざる姿を家臣に見せ続けたということも家臣団の不審、離反につながった理由でしょう。
今川家の終焉は内部崩壊にも似た様相だったと思います。
さて関口親永は持舟城城主です。
「舟を持つ」と書くその字は港湾をイメージし、読み方は「もちむね」です。
現JR用宗駅の北側の小山(城山という地名が残ります)で、駿河湾を前面にした平山城です(場所はココ)。
用宗の名もその持舟から変じたというのが専らの説です。
海側の「大崩」(旧国道150号線-県道416号)と一つ山側の日本坂(国道150号線、東名高速)の駿府市内入路にあたり駿府側から見て大外堀に当たる安倍川、丸子川の直前に設けられた城で西からの防備の要となりました。
駿府市内では大きな戦闘はありませんでしたが唯一この持舟城に限っては毎度毎度各勢力の取り合いになって多くの血が流された城でもあります。
関口親永は永禄五(1562)年に駿府尾形町で腹を切らされていますので、永禄十一年の甲相駿三国同盟破綻による武田信玄の駿河侵攻では武田家の水軍創設の悲願から執拗に攻めたてられて関口家の次に入った今川家臣、一宮出羽守隋波斎らの籠城戦となりました。
武田勢により一宮出羽守らは討死、武田信玄は水軍大将の岡部貞綱に城を任せ、岡部貞綱は伊勢の国の海賊衆、向井正重を招へいして持舟城主としました。
その後は徳川勢による攻撃により一旦は向井勢持舟城は落城させられます。
これは持舟城が高天神城の海上補給路の大元であったが故で家康は無理にも戦線を伸ばす必要があったのです。
しかし大井川を渡河して日本坂を超えるなどというリスクは脅威であり武田勝頼の反転攻勢に際してはすんなり撤退して城をあけ渡しました。
勝頼は元の今川家家臣、朝比奈駿河守信置を城主に入れました。
高天神城が落城ののちは武田勢敗残離散の兵を収容するための城としてのみ機能し、徳川織田連合軍の東上とともに城を捨てています。
画像は本丸址周辺から見た図。
東側は富士山に久能山を控えた静岡市内。真南の駿河湾。
南西の大崩方面。真北、東名高速が見えます。
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