昨日は鎌倉西御門、源頼朝墓地について記させていただきました。
墓地の形式(法華堂形式)や設置の場所について、都市中心部では一切合切禁じられることになったり住居区画から離れた場所に設置されるようになるのは都市の成長過程には絶対に欠かすことはできない方策でしょう。
これは欧州文化圏の発達初期段階の都市に於いてもそのような歴史を辿っています。当初は住居地近隣地に堂内安置方式(教会形式・・・これは我が国の法華堂形式と同様)の墓地をつくり火葬せずに「そのまま」納めていました。
欧州ではペスト等の伝染病の大流行や遺体の腐敗による異臭等不衛生的になるため火葬、納骨堂収納への転換が進んだと思います。
頼朝の場合は時の権威者たるものの墓地でありいわば寺そのものが一人だけのための墓所であって比較にはなりませんが、一人の為に寺を建てたり御堂を建てたりすることが都市手狭で不可能になり、たとえ一族郎党を合葬したとしても非効率でいきつくところあっという間にいっぱいになってしまいます。
火葬という形式は仏教伝来とともに我が国の習慣に根付いていますが権威者の埋葬に限っては往々に土葬も見受けられました。
今春の宮内庁の発表では、天皇や皇后が崩御した際の埋葬方法について、今上天皇と皇后の意向によってこれまでの土葬から火葬に変え、天皇と皇后を合葬することを検討すると発表しましたね。
時代が経てば墓ばかりが溢れかえって住む場所が無くなることは明らかですので仕方ないことでしょう。
日本における墓地の在り方について私の考えを記せば
①最高権威者、②準権威者、③一般庶民等によっての違いがあります。
③の一般庶民の葬送は古来より野葬、林葬と言って要は遺体を山野に置いてきて(姥捨て山・・・)これは海外原始宗教の国々にあった鳥葬、獣葬、風葬(鳥獣に喰わして風化させ土に還す)の類で「墓地管理」の範疇にはありません。
ここでの墓地は①と②の歴史上露出度の高い著名な人物たちの墓です。
墓石や遺構として残す理由はその生前を偲ぶことですがそれができるのは有力者の特権だったのですね。
ところがこの墓地というもの、まったく信憑性というものに疑問が残るような場所にあったりします。
ホントにここで亡くなって埋葬されたのか、遺骨はあるのかという単純な疑問は当然に起こってきます。そこで歴史上の人物の墓所が各所に渡り複数残る理由を記します。
1 戦闘状態、あるいは処刑などで死ねば有名人、手配人につきものなのが
「首実検」で遠方の 主人にその首を届けて確認させるという習慣がありま
した。よって死した場所に「胴塚」と呼ばれる墓、届けられた首を検証し
晒されたのちに埋葬した「首塚」、これだけで2つの墓が出来ました。
2 首のほか胴体から離れるもの、たとえば倒れた故人の従者が戦乱の
ドサクサに髻(もとどり)を切って家族に届けるということを行いました
がそれを遺品にして「髻塚」をつくり追善の供養としたこともありま
す。
3 他にも故人の身に付けていた鎧や刀を遺品として墓とし「鎧塚」「刀塚」
「笛塚」。
4 遠地で亡くなった故人の遺品である装束を埋葬して墓とした「装束塚」。
後日亡くなったであろう場所に遺族が訪れて石を拾って帰り「納骨」する
「石塚」
5 個人的埋葬者の有無にかかわらずその場所に何らかのかかわりのある
人物への畏怖から作られた経塚・鬼塚・戸塚・宝塚・足塚・藤塚・車塚
面塚・舟塚・尼塚・遊女塚・安寿塚・行人塚・猫塚・犬塚・鼠塚・・・・
上記3、4は元々埋葬されたものが遺体ではないので遺骨はありません。
ゆくゆくは腐食風化してしまいます。
5の場合は人々の「畏怖」の表れです。特に「荒ぶる神」になって自然界の天変地異をおこさないでほしいという切なる気持ちで祀った供養塔が主ですので遺骨等が無いのが定番です。
さて、問題は1や2ですね。
これは著名な人であればあるほどたくさんの信奉者があるためにその死を悼んで供養塔の類を作ります。
寺であればそういった著名人との「縁」をうたえばその格式まであがります。
また故人が強い権威者であった場合等、その権威の庇護や次の権威を継承するものであるとの主張から墓を建てることに力を注ぎました。
よってこんな場所にもといった感じで同じ人の墓が複数建っていきます。
例えば織田信長の場合、私の知りうる限り「本能寺に遺体は発見できなかった」なのですが、本命の阿弥陀寺の他、静岡富士宮西山本門寺の首塚等慰霊塔等含め十数か所に及びます。色々な説得力のありそうな後講釈がつきものです。
そして、これも良くある話ですが最初に作られた墓地が街道拡張、寺社炎上等による「移転」があると元あった場所と新しい場所の2箇所の墓地が出来てしまいます。時代の変遷で元あった墓地が移動そして集約させることもあり、そうなると上物である墓石等のみの移動で済まされることになります。
中には遺骨が発見されれば収骨して改葬することもありますがこれだけはまったくその時々によってバリエーションがあると思います。時としてそのまま埋め戻す等・・・
相良の海岸の陣台山墓地の発掘調査にも立ち会いましたが明治期の墓地であっても遺骨は殆ど出て来ませんでしたが、かといって鎌倉由比ヶ浜などでは鎌倉期の遺骨が発見されるといいます。色々な条件の違いによって違ってきますが土に還そうという考えはずっと同じです。
現代の集合した墓石群はまず後世の管理のし易さからいって改装後のものだと思います。公園化、住宅化のあおりを受けてそれぞれ分散していたであろう墓石を集めて合葬させたものが多いのではないかと思います。どちらにしろ肉体についての考え方は「土に還る」ですので墓石の下に遺骨の有る無しに関しては考古学的、あるいは科学的(DNA)考察以外からは殆どあまり考えなくともいいことかも知れません。
私の居住した小田原では酒匂川東側の海岸地現住宅地、鎌倉由比ヶ浜砂地と住宅地、相良の陣台山南側の海岸とそして北側の現住宅地等、どちらも墓地または処刑場でしたね。罪人を処刑してそのまま掘りやすい砂地に埋める。それが「海岸」の在り方です。
7年ほど前に金沢文庫駅前の国道16号脇のマンション建設現場の崖面掘削中に「やぐら」(石窟墓)が出てきていたのをたまたま目にしましたがその後どうなったかわかりませんね。これもおそらく近世の住宅振興イケイケ主義により次々に墓地を破壊していったのではないかと思います。
勿論多少の供養に似たことはしているとは思いますが引き取り手のある墓石は集約していきました。死者への敬意とか畏怖が完全に欠如している時代ですね。引き取り手が無い場合は砕石場行きですね。
当山の場合過去に何度も移転していますがそれだけでなく廃寺の跡は今や住宅地になっています。そういう場合当初墓地は厄介な代物でしたが上物(墓石)さえ撤去してしまえば更地になってしまいますしね。
鎌倉の他各地にそんな場所は溢れています。
現在でも無縁の墓石は1年の公告というステップを踏めば簡単に撤去、処分できてしまいます。もはやこの期に及んで遺骨はどうなったかなど知る由もありませんね。
それが今の「開発」という名の美しき都市開発の裏側だと思っています。
考えてみれば古代庶民がそうしていた「野葬」、今でいう「自然葬」という埋葬方法がベストなのでしょうが海にしろ山にしろそこで生活している人たちの権利がありますので難しいとは思います。
今後お墓の在り方は別の意味で私たちの大きな課題となってくるでしょうね。
画像は鎌倉の竹寺、報国寺です。ブログにも何度も登場しています。
竹の根本で崩れた五輪塔につい「滅びの趣」を感じてシャッターを押してしまう私です。石碑にありますようにこの五輪塔群は例の鎌倉由比ヶ浜から移された墓石たちです。滑川(なめりかわ)河口の西側の海岸とその周辺を由比ヶ浜、東側を「材木座海岸」といいます。
サザンの歌のイメージ、若者が数多集っていわゆる「チャラチャラ時代」にその地を目指した方々もおられたことかと。
そうですね由比ヶ浜は歴とした墓場の跡です。
和田合戦において和田義盛が戦死した場所でもあり元弘の乱では新田義貞が稲村ヶ崎を突破して鎌倉中心部への侵攻を食い止めようとする幕府軍と激しい戦いのあった場所です。
この侵攻により幕府は滅亡の道を辿ります。
この由比ヶ浜には未だに掘り出されていない墓もあり時折人骨が出るとも聞きます。
その墓場の上で人は様々な営みを展開しているのでした。
下図は和田一統の墓碑と東勝寺橋から見下ろす滑川。
コメントをお書きください