家康を激怒させた大賀弥四郎  築山御前

先日は「中間(ちゅうげん)」をブログで記しましたが家康、岡崎時代の中間のお話を。

中間というは武士階級では無く、その下の位で雑務を担当しました。家康は能力、器量によって適宜人を配しましたので中間出身といえども譜代の侍を越して寵愛される者も中には出てきました。

まず大抵はそんな時、周囲はその力量が付いてこない場合には、やっかんだり誹謗するものであり、仕舞にはその人が浮いた存在になってしまうものではあります。

 

家康の苦労話、三大危機と呼ばれる三河一向一揆、三方原負戦、本能寺後の伊賀超えの他に、長男信康と正室瀬名(築山殿)の件が挙げられます。

長男と妻を殺すという異常な結末には驚くばかりでありますがその事件に発展させたのは実をいえばこの大賀弥四郎ではなかったのかと云われることがあるようです。

 

岡崎城の北を走る東海道の北側の平坦な場所がそうだといわれていますが、そちらにはわが東本願寺の岡崎別院やら岡崎教務所など真宗ご縁のお寺のほか神社仏閣が多くある場所で古くから根石原(念志原)- ねんしばら-と呼ばれていたとのこと。

天正二(1574年)大賀弥四郎はこの地で処刑されたそうです。

 

私が思うに、この事件は家康の処断としてはかなり厳しいものでそして何より残虐、これも戦国の世の倣いかと思うとつくづくその世に生まれなくてよかったと思うばかりです。

 

大賀弥四郎は当初はその算術の能力を評価されて、家康と嫡子信康双方に認めらて立身出世し、ますます他者に対して増長したそうです。

結果的にその高慢な態度は殿の耳に届きすべてが「元の木阿弥」に帰するのですが。その後に岡崎城をのっとって武田勝頼を手引きすることを目論んでその計画が発覚してしまいます。

瀬名、信康母子がやはり武田と通じていたということを勘案してもまんざらその勝頼手引きの罪状は嘘では無さそうです。

処刑の翌年には勝頼も満を持して動き、長篠の戦いにつながります。

 

さて、大賀弥四郎はこの地で処刑されましたが、この処刑方法は熾烈です。

街道筋に手足の指を切断したうえに首だけを地上に出して地中に埋めて通行人にその首を竹製の鋸でひかせるというものです。

より残虐なところは妻子も捕えたうえ彼の目前で処刑したとのこと。

それだけのことをしでかしたということなのでしょう。

 

画像は瀬名(築山御前)の首塚。市庁舎近くの真宗寺院祐傳寺にありました。

 

こちらの五輪塔もまた味がありますね。

あの石川数正に建立されたものだそうです。

山号に地名を現したであろう「根石山」とあります。ここが「念志原」であったことはまず間違いないでしょうね。

念仏を志す=西方浄土への想念の意でしょうか。