遠江奥浜名湖、引佐井伊谷(いなさいいのや)の龍潭寺は彦根龍潭寺のいわゆる本寺にあたり、井伊家発祥からの菩提寺でその前身は平安時代といわれる古刹です。場所はココです。
龍潭寺は井伊谷城から南側に下った場所にあって井伊城前面の守備の砦として機能していたといいます。
山門を入ってかつてその守りの要であったことを想い起こさせるような石垣を見ることができます。
当初は24000坪という広大な境内を誇っていましたが明治政府に一旦没収された後、10000坪が返還されました。
また「丈六の釈迦牟尼仏」という江戸中期の大仏坐像がありますが、明治のあの廃仏毀釈の痕跡が残されています。
大仏には落書きのあとや金箔の擦れた後がありますが、大仏殿が壊されたあと近所の子供たちの遊び道具にされたあととのことです。
ここでもあの恥ずべきタリバーンの如き愚政の歴史を想い起こさせました。
当初は幕閣の中枢を成した譜代筆頭の井伊家彦根藩ですが井伊直弼の憤死以来、報われない扱いに抗するように当時の幕府中枢へ反旗をひるがえして、大政奉還以降は(それまでは幕府側として動きますが)薩長新政府支持に回って戊辰戦争を立ち回りました。(新撰組組長、近藤勇を捕縛)
そのような井伊家の立場がその菩提寺寺領全部没収→1000坪返還となったのでしょうか。
また、この寺にはかつて南朝の後醍醐天皇の皇子、宗良親王の菩提寺でもあります。井伊城の並びの三岳城に籠城して北朝方と戦い敗走して諸国を転々とし最後はこの井伊谷に帰って晩年を過ごしています。
境内には宮内庁管理で例によって立ち入り禁止の墳墓区画がありました。
見どころは何と言っても手の入った寺庭ですが、井伊家代々元祖共保等の木像と位牌が並ぶ井伊家霊屋があって拝観することができます。
岡崎大樹寺に松平家(徳川家)代々の位牌が並びますがそれらをコンパクトにした感じですね。
井伊家代々の墓地が境内にあります。
中央二つは明治になってからの建立のようですが、右側が寛治七年没年、井伊家元祖の井伊共保、左側の墓石には永禄三年、今川義元のもと先鋒の大将として出陣した桶狭間で主君義元とともに討死した井伊直盛の銘があります。
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