彦根の井伊家菩提寺龍潭寺は島清興(島左近)屋敷跡の清凉寺のお隣さんです。龍は「りょう」で「りょうたんじ」と読みます。
まさに佐和山城址、琵琶湖側の登り口にある寺で、城址に行くにはこのお寺さんの境内地、墓地内を通らせていただくことになります。場所はココです。
1600年(慶長五年)、井伊直政が近江佐和山に入り、遠江引佐、井伊谷の龍潭寺を分寺し、この地に建立したのが始まりです。
井伊家といえば徳川四天王、屈指の精鋭「井伊の赤備え」を率いて関ヶ原に活躍し佐和山藩初代(井伊家では24代目)となった井伊直政が勿論一番名のあるところでしょう。
軽装備の本多忠勝とよく比較されるところですが井伊直政は赤備えの重装で関ヶ原で活躍するものの島津の鉄砲により撃たれて落馬、結果佐和山入封後2年で疵が癒えずに亡くなったといいます。
反対に軽装で動き回った本多忠勝は生涯で一度も疵を負わなかったそうです。
直政は関ヶ原では東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いていわゆる「抜駆け」をし、まんまと功名を得ますが家康はここでの直政を軍令違反とせずに許しました。
家康も気分屋です。直政が怪我を負っていたことが良かったのでしょうか。
2年と少しで直政が死亡したことに地元では「石田三成の怨念」との噂が広がって、噂に畏れたのか結局佐和山藩は廃藩、城は破却されて平時の平城、彦根城の彦根藩が立藩されました。
また、幕末の大老井伊直弼は教科書に出てくるほどの有名人ですね。
勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印し、また将軍を徳川家茂に決定して、それらに反対する不満分子を「安政の大獄」で粛清、その結果、自身も「桜田門外」で首を取られてしまいました。
ここでの事件で彦根藩は護衛の者たちのうち怪我の軽かった者に厳しい責任追及をしていますので、昔から「負った疵の大小」が「仕事をしているかしていないか、頑張ったのか弛んでいたのか」の判定基準だったのでしょうか。
その井伊直弼は偶然に偶然が重なって大老になった人ですね。
父親は井伊直中で6男でしたが直弼は14男でした。
兄たちは養子先もどんどん決まっていく中、いつまでたっても部屋住みの身でブラブラしていたのですが、幸いに兄たちの病弱や早世でポロっと家督継承が転がりこんできました。
母親も江戸彦根藩邸の奉公人、伊勢屋十兵衛という人の娘で井伊直中に見初められて側室となった君田富という人です。
君田富はその容貌の美しさと知性から彦根御前と呼ばれ慕われましたが直弼5歳の時、35歳で亡くなりました。
その人の墓地がこちらの境内にあります。
画像は引佐龍潭寺、許可を得て撮らせてもらった「井伊の赤鬼」赤備え、鎧具足です。
直政の「赤備え」は滅亡した武田家の飯富虎昌-山県昌景の「赤備え」を継承したと云われています。
また上の画像、佐和山城「塩硝櫓」は瓦が葺かれた火薬等の保管蔵と考えられています。
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