月曜の新聞紙上で「秀吉の6本指」の信憑性が高くなったことと、昔から云われていて何も新しい説ではありませんが「秀頼は秀吉の子供では無かった」というその状況証拠が記事では記されていました。
その説にいたった理由があげられていましたので転記します。
①淀殿以外十数人いた側室との間には一人も子供ができてい
ない
②秀頼懐妊推定時、秀吉は肥前名護屋城に居た
③懐妊の報を聞いて大坂に戻った秀吉は何らかの責を問い淀
殿の侍女 三十名を処刑している
④同時期に出入りの陰陽師が追放されている
⑤懐妊について秀吉は当初正室の北政所に「子供は茶々一人
の子で よい」などと喜ぶ様子も無くむしろ関わりたくな
いような雰囲気だった
説ではその陰陽師が「怪しい」とのこと。
また、「6本指」奇形の件は
①信長は秀吉の事を「六つめ」と呼んでいたらしい
②前田利家の記録にもその手の記述あり
③ルイス・フロイスの記述にも
とのこと。
神がかっているとでも臭わす奇怪な伝承、指の数がどうのなどということはどうでもいいことですが、とにかく「秀吉の抜きんでた才能の伝承」はよく耳にします。
この手の伝承は怪しい為政者の正当性を追認させる意味で必ずどこの世界でも後付も含めて出てくるものですが、その最たるものが一夜城伝説ですね。
小田原の一夜城については私の得意なフィールドでしたので耳目にすることが多く、疑いはまったくありませんでしたが、もう一つの一夜城、秀吉(木下藤吉郎)の出世のきっかけとなったこの墨俣城については相当の眉唾で「全くの創作」という見方もあるようです。
画像は、天守閣風建物が「大垣市墨俣一夜城歴史資料館」。
拙速にも遠州小山城と同様、「やっちゃった!コンクリート」の資料館ですね。
合併前の墨俣町が、平成3年にあのバラ撒き、「ふるさと創生資金」を使って、やはり同様の「大垣城」をコピーして作ったそうです。
あくまでも市民の問題で、その気持ちは判らないでもないですがどう考えてもおかしいですね。
ただ「欲しいから」の意見がゴリ押しされるとこうなります。
まぁ地元の政治の力もあったのかも、いやあったにちがいありません。
取ってつけた豊国神社なども分祠されて抜かりは無いようですがこんなものにカネを使うのですからリッチです。
物見遊山はあってもリピートは無いですね。
ボロクソに言ってしまいましたが、いや、ここのロケーションはいいですよ。
美濃と尾張の国境を形成する流域<州俣>の要衝でした。
自然と水のせせらぎを楽しむ場所としては最高です。
橋の下ではバーベキューを楽しむ人たちがわいわいやってました。
歌碑は西行法師、この城址の資料館裏にありました。
ここにも「梅」と美濃と尾張のかけことばがありましたので・・・
「春くれば うぐいすのまた 梅に来て
みのなりはじめ 花のおわり」
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