先日の浜名湖、水遊び断念の後、ナビの設定を「引佐多目的研修センター」にして井伊谷(いいのや)城へ。場所はココ。
この近くには浜松と尾張、美濃あるいは信濃方面に通じる国道が走っており、かつて長篠、足助、遠くは岩村城方面からの帰り道にその名を見てはいつかは訪れてみようと思っていた場所です。
SKIがダメならこっちがあるさという気楽さでやってきました。
井伊谷を「いいだに」と読みたいところなのですが「いいのや」が正解。
古くから奥浜名湖のこのあたり、引佐町を「井の国(いのくに)」(遠江国引佐郡渭伊郷)と呼んでいたそうで2010年には井伊氏の祖、井伊共保生誕1000年を記念して引佐多目的研修センターにて「井の国千年記念祭」なるイベントが催されました。
彦根から例の、ゆるキャラ、ひこにゃんも応援に駆け付けたそうです。
井伊家といえば本家本元はこの井伊谷。
今川家に仕えていました。
当主井伊直満が今川義元に自害を命じられ、その子当主の井伊直親が義元の子、今川氏真に謀反を疑われて今川家重臣、当時の掛川城主の朝比奈泰朝に斬首されています。
2件とも小野道高・道好二代にわたる讒言でそれぞれ不運な生涯を送りました。(後に家康は、小野道好(政次)の讒訴が事実無根であったと道好を処刑しています)
直親の正室で井伊家の家督を継いだ女城主井伊直虎や、直親の遺児である直政は直親の母の兄、新野親矩(にいのちかのり―通称新野左馬助)に引き取られ今の御前崎(旧浜岡町)新野に一時暮らしたあと天正三年に家康に出仕しました。
のち徳川四天王と数えられる活躍をして関ヶ原後、打ち壊された石田三成の佐和山城石材等を利して彦根城を建て、幕末まで続いた名家であったことはあまりにも有名です。
井伊家は遠江井伊谷→遠江新野→近江彦根という井伊家の流れですが新野時代は井伊家雌伏の時で世間からは忘れ去られて滅亡寸前、危機的状況でした。井伊家が相良近隣の浜岡新野に落ちのびていたことは案外相良の人でも承知されていない方が多いかも知れません。
上の画像は井伊谷城から南南東方向、浜松駅方面の図。
ビル群がかすかに見えますがその手前の台地が三方原台地です。要はこの城は浜松城―三方原と一直線上にあります。
三方原戦の時は、信玄の別働隊、山県昌景に占領されています。
この城は台地南端の城で高低差もさほどでもありません。足に優しい城です。上記の通り「引佐多目的研修センター」や「引佐図書館」が麓にありますのでそちらの裏のNTT鉄塔脇の登城口を目指すのが最適です。
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