昨日28日に記しました諏訪原城の脇は旧東海道。
日坂宿に向かう中山公園方向にその歴史の重さを感じる色々な事件、伝承が伝わります。
「小夜の中山」は私が東海道の難所と云われた箱根や大井川(「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」)の近隣に居住したいたこともあって、この「小夜の中山」(さよのなかやま)がそう「難所である」場所とは思えないのですが、イメージとしては「夜盗群盗の類の出没が多い」で、そんな連中が往来に出てきて人を襲うのであればかなりの「難所」であったことでしょう。
かつての観光の地としての名残でしょうか、今は営業をしていない飴屋さんの看板などが寂しげです。
旧東海道の峠道で、下の谷あいには国道とバイパスまでできて車の通行量は多いのですが、ここいら辺りを目標にした人で無ければわざわざこの急な坂を車であっても上がってこないでしょう。
通行人は農家関係以外まず見かけません。
「子育て飴」は峠に建つ久延寺(場所はココ)の和尚さんが拾われた赤子を飴で育てたという伝承から近隣に飴屋ができたそうです。
小夜の中山の「夜泣き石」の伝承から派生したものでそのものズバリ「夜泣き石」はその久延寺にあります。
夜泣き石の曲亭馬琴による伝承が久延寺境内の「夜泣き石」脇の案内板にあります。
『その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。』
このお話も勿論「遠州七不思議」の一つに数えられています。
久延寺には関ヶ原直前に徳川家康東上途中(会津征伐)、掛川の山内一豊の顔色を窺いに立ち寄りました。
一豊が西に付くのか家康の東軍に付くのかまだその腹が読めない時です。
もしや敵となるやも知れぬ掛川城内に入城することは家康の「賭け」であったにしろ何かしらの不安が残る一手であることに違いありません。
一豊はそんな心配を一掃すべくこの峠の寺の中の離れに家康を招き、茶を点てて最高のもてなしをおこなったといいます。
関ヶ原では家康に付いて働き、その功により土佐9万8千石→その後20万2,600石の大大名となりました。
外様としては薩摩、長州らと同様うまく立ち回って明治まで残り結果的に江戸幕府滅亡の立役者を輩出したことは周知の通りです。
家康お手植えの松なども残ります。
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