抜け駆けの功名  今福浄閑の墓?

諏訪原城の特徴名称変更については以前記させていただきました。

「諏訪→牧野」への名称変更については家康が殲滅させた武田家の名残を一掃し新たな名称をつけようとしたことは当然のことでしょう。

よって天正18年(1590年)にこの城の役目は終わって廃城になりましたが、あくまでも徳川家康の銘々による牧野の城の廃城ですので最近の「諏訪原城」としての再デビューは家康としても寝耳に水でしょうね。

諏訪の名称は旧浜岡町、桜ケ池の諏訪湖伝承とは少し性格を異にするでしょう。

桜ケ池の地域の人たち(信州出自であった)の願いにも似た永らく馴染んだ「諏訪」の言い伝えと違い、ここへきての「諏訪原城」の復活は少しばかり武田の名称にあやかりたいという意図を感じますね。小山城もそんな感じです。

まぁどうでもいいことなのかも知れませんが静岡の人たちは自分たちの地元のあまりにも有名な「家康」よりも「武田」に心を動かされているようです。

これも敗者の美学、同情肩入れの情け、なのでしょうか。

 

相良榛原地区の海水浴場と民宿の経営は芳しく無いのが実情ですが、戦後からバブル期くらいまでの頃の「甲州」の皆さんの誘致はことさら精力的に行われ、客層も甲州信州の比重がかつて多かったものです。

ところが昨今の遊びの選択肢が多岐に渡り、「海嫌悪」の思想も追い打ちをかけてそれらの地区からのお得意様たちの来訪も期待できなくなってしまいました。武田菱の紋をトンネルに掲げたり、諏訪の名を残そうとするのも何かしら未練が残っているからと穿って考えてしまいます。

 

諏訪原城から武田勢を駆逐した後の城代に三河東条城主、松平家忠と三河牛久保城主、牧野康成等が交代で入っていますが牧野方の書物には牧野康成(家康から一字を賜る)の名字と古代中国周時代の故事「牧野―ぼくや―の戦い」の牧野とが通じていることから、「牧野城」に改めたとあります。ここには「牧の原」だからといった記述はどこにもありません。

 

牧野康成は筋金入りの武断派で小田原の役でも名を馳せた人物。

その長男は牧野忠成です。(父親と同じく徳川秀忠から一字を賜わっています)

牧野忠成は勿論秀忠付きで、例の関ヶ原直前の信州上田城の大失態でその咎を攻められて出奔してしまいました。

そのことに関して父親牧野康成の息子弁護の談にこんな言葉が残ります。

「部下の抜け駆けは戦国の倣い」

 

開き直りかもしれませんが古来より「抜け駆けの功名」は個人プレーであって「統率」(正々堂々の軍)と組織だった連携を重んじる戦いの世界では最も嫌われるところでした。よって抜け駆けによる功名争いというものは戦いにはつきものであったからこそ、それぞれ戦いの指揮者はその違反については厳しく罰するお達しをしていました。

一糸乱れぬ連携と集団での効率的な動きを乱して、ひとつ間違えばすべてを危機的状況に陥れかねない行為であったからです。

結果オーライということもありましたが功を得たとしても大抵は「ずるい奴」としての汚名を着せられました。

 

最近でも、これって「抜け駆けの功名」?というシーンを見ましたよ。

どこぞの市議さんたちでしょうか、あの島に泳いで渡って息巻いていましたね。浅はかな市民迎合による功名争いに見えました。

メディア露出度の向上も果たし、次は国政ですか?

軽犯罪法とのことですが「立小便」と同様ということですね。

しっかりしてくださいよ、子供たちも見ていますよ。

悪いことと決められていることは(刑法犯・確信犯)やってはいけないのですよ、子供たちにもそう教えているし、法治国家を標榜しているのはおわかりですね。議員さんですもの。

レベルを同じ土俵にしては見えるものも見えなくなってしまいます。

 

そういう意味では都知事殿もどじょう殿もまた同じ。

功名争い、一番槍、一番首、先駆け狙いですか。ウケ狙いの類?

どの国も同じですが政策がマンネリ化して頓挫し、(己の)先が見えてくると「あの手」のことを仕掛け膠着感を打破するのが一手であることを見え透いたことであってもやらかすのです。

戦国の倣いならいざ知らず・・・

とにかく何も進捗しない足の引っ張り合いの「政治とやらのショー」をいつものように傍観させてもらいましょう。

 

画像は諏訪原城、茶畑に立つ今福友清―長閑斎(浄閑斎)の墓と言われる石塔ですが、今福友清は隠居後久能山城の城主として入り、そちらで病死していますのでこの石碑の意味が今一つわかりません。

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コメント: 14
  • #1

    今福 (日曜日, 20 5月 2018 23:47)

    全くのでたらめな見解で呆れて開いた口がふさがらない?何を根拠にものを言っているのか理解に苦しむ!今福浄閑斎は、武田勝頼公が駿河一帯の全ての城をいとも簡単に落城させ遠江の難関不落の、かの信玄公が落城させることができなかった高天神城を勝頼公が徳川家康と織田信長両軍に大勢の軍勢で落城させた事で、大きな打撃を与えました。今福浄閑斎は、その中で七十騎の兵の統率者でした。そして家康公は高天神城を失い領土は大きく変わりました。そこで、その功績を称え勝頼公は、諏訪原城に今福浄閑斎公を城主に任命させたのです。今福浄閑斎公は抜け駆けの功名ではありません。むしろ家康公が浜松城に居る事で勝頼公は一気に浜松城を攻めに大勢の軍勢で総攻撃したかっのですが、天竜川の増水でなかなか渡ることができないでその手前で勝頼公はとても悔しい思いだったのです。天竜川の増水がなかったら、一気に家康公の浜松城を手に入れたこでしょうね。間違いなく。あくまでも天下は天竜川で状況が変わったこと。すなわち、家康公は武田勝頼に圧倒されていたのです。私の言いたい事は抜け駆けの功名など武田軍勢にはいません。

  • #2

    今井 一光 (月曜日, 21 5月 2018 07:07)

    今福様
    ありがとうございます。
    2012年に殴り書きした支離滅裂の文章と内容の稚拙、お許しください。
    (もっとも毎度同様ですが・・・)
    ただし上記「牧野の件」と「今福石碑建立の不思議」について記しました。

  • #3

    今福 (水曜日, 06 6月 2018 00:06)

    今福浄閑斎は正式には今福長閑斎です。元々は昔の奉行所の裁判官でしたから。五十歳までに千人程、判決がおりたらその場で試し切りをしたのです。つまり首をはねたのです。余りにも罪人が多かったのでしょうね。さて、諏訪原城の件ですが、あの畑の中にある石碑は間違って粗末な石碑がありますが、あれは多分嫌がらせの石碑ですね。今福長閑斎は久能城にて没しています。墓も久能城にあります。まあ理不尽な石碑を勝手に畑の中に建てられ、さぞかし長閑斎公に首をはねられた罪人どもの子孫が建てたのでしょう。

  • #4

    今井一光 (水曜日, 06 6月 2018 00:49)

    ありがとうございます。
    そうでしたか・・・何ゆえにあの石塔があるのかは不思議でなりませんでした。
    茶畑の所有者の関りがあったかもしれませんね。
    久能山東側の本能寺や杉原山の麓を訪れたことがありますがどう考えても
    諏訪原城のそれは酷いものです。
    島田の教育委員会で何とかして欲しいですね。

  • #5

    今福 (木曜日, 07 6月 2018 15:46)

    今井様は、非常に戦国時代の事に興味があるようですが、趣味で史蹟巡りをしているのですか?

  • #6

    今井一光 (木曜日, 07 6月 2018 19:07)

    ありがとうございます。
    寺の仕事、仏弟子の方そっちのけで歴史の現場に赴くのが好きです。
    歴史世界は書物でのみ知ることができますが本当の事は分りませんね。
    それを勝手に色々想像を巡らすのも醍醐味です。

  • #7

    今福 (木曜日, 07 6月 2018 22:57)

    成程、今井様は佛道を行ずる僧侶の身でありながら、今時珍しい和尚さんですね。昨今の僧侶は、とにかく檀家から布施布施と金儲けの事しか考えていない生臭坊主が多いようですが、今井様は多分、昔の歴史を自分の目で確かめて見ないと気が済まない方だと思います。正に他力本願ではなく自力本願ですね。他宗を批判する訳ではありませんが、かの日蓮聖人は佛滅後、末法の鎌倉時代に上行菩薩の生まれ変わりに成られ、当時の鎌倉幕府に、このままでは日本国は、蒙古襲来で滅亡させられると、当時の執権、北条氏に立正安国論を献上しました。まさに国家滅亡の危機が訪れていました。お釈迦様の本懐は法華経を広めるために法を説かれました。そこでまさに末法の時代には釈尊のお説きになられた法華経以外にこの国を救う道はないと日蓮上人は、邪法を痛烈に批判しました。四箇格言に、念仏無間禅天魔真言亡国律国賊とおうせられまた。阿弥陀仏は西方浄土の教主であり、娑婆世界の教主はあくまで釈尊のみである。念仏を唱える者は無間地獄に落ち苦しむことになります。佛の教えはただひとつではないですか。

  • #8

    今井一光 (木曜日, 07 6月 2018 23:16)

    ありがとうございます。
    鎌倉以降多くの仏教解釈が多岐に広がって出て今の複雑難解でとっつきにくというイメージが定着してしまいました。
    また葬式仏教と揶揄される雰囲気はそれを広めるための僧侶が怠けていたことによるものでしょうね。
    仰られる通りの様で大いに反省するところです。
    ただし拙寺の宗旨は一向専念無量寿仏 阿弥陀仏一向の他力を主眼としています。
    いずれにせよ仏教というものとは「今ある与えられた命を懸命に生きる」ことを
    主題にしていることと思います。
    その生きた証は歴史を紐解くことで触れることができます。
    過去の人間のありさまを覗き見ることは将来のことについて類推することができるかも
    知れません。

  • #9

    今福 (金曜日, 08 6月 2018 23:41)

    親鸞上人は、荒唐無稽で破天荒な鎌倉時代では酒と女、肉食するいわば、佛道界の異端児でした。相当な変わり者だったそうです。あらゆる戒律を破った方でした。まさに変わり者の今井様と似ている様な気がします。

  • #10

    今井一光 (土曜日, 09 6月 2018 00:34)

    ありがとうございます。
    いわば当流は「違ってそれでイイ」という宗旨でもありますね。
    人はそれぞれいろいろな性質の者がいてそれらがあつまって共存、社会を構成しているので
    そもそも同じであることが難しいのだということです。
    なによりその「変人」は仰る通りにご開祖の評価にありました通りで
    当然に私どもにとって違和感がありませんし、むしろそう思われることは
    嬉しくもあります。
    ご開祖の如くに至れるなどとは思いもしませんが・・・。
    まぁ僧籍にあっても殆ど「俗ずっぼり」ということでしょうね。

  • #11

    今福 (日曜日, 10 6月 2018 22:36)

    四の五の言わずに一度今井様とお会いして雑談でもして言いたい事を話たいですね。

  • #12

    今福 (日曜日, 10 6月 2018 23:23)

    どうした、法華経獅子の身の三虫、さん。

  • #13

    今福 (月曜日, 11 6月 2018 00:58)

    生臭坊主は佛道に専念せよ。下らないブログを書いている暇があったら、この国の将来を考えられないたらたらどうですか?大昔の殺し合いなど、くだらない事はどうでもいい。まずは、この国の将来の事が大事なのではないですか。

  • #14

    今井一光 (火曜日, 12 6月 2018 19:19)

    ありがとうございます。
    どちらの今福様か存じ上げませんがブログでの応対はチャットではありませんので
    即時対応はできません。悪しからず。
    仰る通り生臭坊主のくだらないブログですが
    それを記す記さないに関してはあくまでも私の事でございます。