大谷吉継の「三年の間に祟りをなさん」の通り小早川秀秋は2年後に、織田信孝は「近いうちに」と思ったか思わなかったか「報いを待てや」と謳って豊臣秀吉一統は夏の陣で滅びます。
呪われた当人の秀吉がそんなこと(豊家滅亡徳川天下)をも知らずに先立っていますのでまさに「知らぬがホトケ」ですね。
(坊さんがこんな語を使うのはいけないことでした。とんだ失敬、失礼しました)
標記、当ブログ既出ですので詳細は省きますが先日訪問した野間大坊の義朝の墓地の隣に織田信孝の墓があります。
それにしても長田忠致の辞世の「美濃尾張・・・」に続き
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
は気が利いていますし恨みの言葉も爽快です。
自らのはらわたをむんずとつかみ出して投げつけるなどという行為も異常ですが(想像つきません・・・)そのくらいの怒りが頭を突き抜けていたことは判りますね。
野間に伝わる二首の辞世を聞いて思うこと。
私の「その時」に備えて一句、いかにもと人を唸らせるようなものを用意しなくては・・・。ここでも昔の人、頭が良すぎます。
①の織田信孝墓石は大御堂寺、源義朝墳墓の脇にありますが、徒歩で3分程度の安養院が織田信孝が幽閉された書院のある場所です。
大御堂寺内の一院で本尊は阿弥陀三尊。
信孝自刃の間(復元)には自刃に用いた脇差(末国俊作)に血染めの軸(中国揚甫)があります。
~非公開~画像はそちらの写真を撮らせていただきました。
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