戦国「お茶好き」No.1と云えば師匠の信長譲りの秀吉でしょう。
小田原石垣山(一夜城)では最近のGW(ゴールデンウィーク)では茶会が催されますが、秀吉の小田原攻めの片手間に秀吉の本陣となった石垣山城に淀殿や千利休まで呼び寄せて茶会まで催したといいます(場所はこちら)。
別名一夜城とはいいながら4万人を動員、天正18年4月~6月、それでも3か月弱で作り上げた城です。
関東地方における総石垣の城ではここがお初といわれ、石積みは例の近江の穴太衆(あのうしゅう)を引き連れ本格的な城壁に仕上げました。
石垣山の名称はそこからきています。野面積み(のづらづみ)の石垣は縄張り各所で見ることができます。
秀吉御一行様の長期戦覚悟での付け城でしたが、敵から見れば秀吉の本気度と執着度がプンプンして、戦意喪失することは致し方無いところですね。
それも籠城組の北条勢にはこっそりと工事を行って、急ごしらえの城壁などは白紙を貼り付けて漆喰に似せたりする手の入り様。
それを箱根外輪山から小田原城南西側に張り出した山腹に建設し、一気にそれらを隠していた樹木を伐採して一夜のうちにその全容を露わにしたのでした(もっとも力を入れているのはやはり小田原城に向いている~目に見える~方向のみのようですが・・・)。
そのとき城内で早起きした人はさぞ度肝を抜かされたことでしょう。
4枚目が櫓台跡で小田原城側に向かった曲輪東側にあります。
そこからさらに東側を下った場所に3枚目の井戸曲輪があります。
井戸曲輪で汲んだ水を使って櫓台と本丸の間の開けた曲輪にて茶会が開かれていたかは判りませんが、今の茶会は芝の張られたそちらで催されています。
8枚目が早川の渓谷部対岸、入生田の山並みです。
この入生田は箱根山強羅方向から小田原久野方面(小田原城北西部)に繋がる道があり、小田原攻めの時、侵攻布陣した武将は宇喜多秀家、織田信包、細川忠興等があります。
相模湾には茶人、津田宗及と懇意にした海賊大名の九鬼義隆の船団が集結しました。
当時、お茶を嗜むのは武士階級の流行でしたが、信長-秀吉と繋がりのあった大名が殆どの様です。
関東にはその流行りものは案外バカにする傾向があったかも知れません。
家康もその道にはハマらず、付き合い程度のイメージです。薬草好きの家康でしたが茶の効能には気が付かなかったのでしょうか。
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