墓場放浪の醍醐味 近江蓮華寺 つづき

一向俊聖の蓮華寺は浄土宗の名刹です。

そのお寺には、それはそれは圧巻無比の墓石群があります。

 

 「都会の喧騒を嫌い、墓地の静寂を愛する」などというとあたかも哲学的で当人の思慮深さなども連想させる台詞台詞した言葉ではありますが、そもそも私ごときは墓石に囲まれた寺に生まれて、遊び場も、どの地においても墓地が主体でしたので、そのような気障(キザ)な言葉も何気なく聞き流しくださいますよう。

もっとも時折訪れる「鉄筋コンクリートの墓場」(都会)も悪く無いですが。

 

 さて敢えて私の好みのお墓を言えばそれは五輪塔ですね。

また五輪塔でも五分割に分かれている大きな石塔よりも「地水火風空」が

一体化した片手に乗るくらいの大きさの五輪塔がいいのです。

また、経年で崩落した石塔なども・・・ 

 五輪塔は真宗ご門徒様ではあまり見受けられません様式ですが当山落慶法要で作った手ぬぐいにそのデザインを記しました。

 

宝篋印塔も悪くないですが当故人の生前の位の高さが想像できます。

小さき五輪塔は「名も無き人の生きた証」で古そうで風化して苔むしたものはとても趣を感じます。

それらが山の裾や古びた墓地にひっそりとたたずむ姿には思わず言葉を掛け手を合わさずにはいられません。

幕末、といっても時代は鎌倉幕府転落崩壊の加速が付き終焉寸前の頃。

京都の幕府出張所である六波羅探題の北方としてよりによって1330年に上洛した北条仲時は六波羅探題南方の北条時益とともに1333年足利尊氏らの手によって六波羅を追われます。

 

光厳天皇・花園上皇らを引き連れて京を脱出し鎌倉で再起を期そうとしたのですが途中散々に打ち負かされ、時益も討ち取られ、仲時一行は近江番場の蓮華寺にボロボロになって逃げ込みます。

 

そしてあの元祖バサラ大名、佐々木道誉によって寺は包囲されてしまい、「もはやこれまで」。

仲時の最後の言葉もなかなか印象的です。

要は「今までありがとう。自分だけは腹を切るので皆は我が首を取って手柄としてほしい」でしたが彼が自害したのち次々と家臣たちは後を追いました。

本堂前で主従432人が自刃。

彼らの流れ出た血が川のようだったと(太平記)。

画像は本堂前から撮った図と門の外の看板。しかし警備会社のステッカーが・・・

432人の「陸波羅南北過去帳」は重要文化財として当寺に残るとのこと。

さぁ言葉は不要。是非に。