孕石光尚は駿府に屋敷を許され今川氏の有力被官でした。
孕石という名は遠州から駿河にかけて現在も見受けられる苗字で、元は原(ハラ)氏を名乗っていたという説もありますが確かではありません。
元は今の掛川駅の北方、第二東名のすぐ北側に「原泉」という地名があって
(A孕石城 B小笠山砦 C高天神城 D諏訪原城)
その地方を治めた国人領主だったと思われます。
その原泉の北の山の中腹部が孕石城址です。(画像)
この光尚の息子が今川義元の偏諱を受けたであろう孕石元泰です。
駿府孕石家の屋敷の隣に三河から松平の人質、竹千代(徳川家康)が来たことによってこの人の後から襲われる不幸を予知できたでしょうか。
現代でも隣家とのトラブルや不仲は尽きないもので時として刃傷沙汰になったということも耳にします。
義元亡き後家康は今川家を離れ敵対したこともその後の家康に対しても反感を維持していた理由だと思います。
孕石元泰と子の元成は今川滅亡後は武田氏に従しました。
●孕石主水元㤗
<増田実編 郷土教育資料(第六輯) 高天神城址案内より>
今川家臣でのち武田氏に仕え天正七年高天神に入って武者
奉行となった。
同九年三月二十二日の夜切って出て生捕されて切腹を命ぜ
られる。徳川家康の幼き時、駿府の少将の宮の町に居住し
た時、孕石も隣屋敷にあった。
当時家康の狩猟の鷹が折々孕石の屋敷に入ると「三州の倅
には飽きれ果てたと」たびたび放言したという。
家康これを記憶して「吾に飽いた孕石なればはやく切腹せ
しめよ」と申し渡した。
孕石これを聞いて「さらに後悔なし」とて潔く南を向いて
腹を切った。傍らにある者これを見て「流石の孕石ほどの
者が最期を知らぬか、西へ向かいて腹を切れ」と云えば
主水いわく「汝はものを知らずや仏は『十方仏土中無二亦
無三除仏方便説』」と説き給う。
「西方許に極楽は有りと思うか。あら胸狭きことや。
何の極楽を嫌わんや」と 南を向いて腹を切ったという。
子孫土佐山内氏に仕えた。
孕石城は土塁らしきもの曲輪らしきものは推測できますが殆ど周囲は茶畑になっておりハッキリとわかりません。
切腹後の首は家臣が当孕石の地に持ち帰って首塚を建てたといわれ、代々その墓地を管理されていると聞きます。
元㤗は高天神開城時、捕虜になった者でただ一人だけ切腹させられたといわれますが要は隣家同士のいざこざがそこまでこじらす要因になったということでしょうか。
うらみつらみの家康憎しの態度も尋常ではありません。
南を向いて腹を切る時の口上はカッコよくて頷けますが・・・
お隣の住民とは仲良くしなくては後から後悔することになるかもしれないという例でした。
また、幼きからといってぞんざいな扱いはしないものです。
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静岡の音楽阿呆 (日曜日, 20 9月 2015 17:49)
高天神城で家康の前で切腹した後、静岡市駿河区池田:青龍山本覚寺の代々住職の墓前前にお墓があります。足利尊氏の叔父が二代目の住職。お墓の横に岡部丹後守の供養塔があります。なぜわが郷土に供養塔とお墓があるのか教えて頂きたい。よろしくお願いします。
今井一光 (日曜日, 20 9月 2015)
ありがとうございます。
かつて本覚寺さんへお参りした際に上記両名の名が記された
墓碑を確認し、ブログにも記させていただきました(2012.12.29 →サイトマップ)。
ハッキリ言いまして何故こちらのお寺に墓碑があるか、その理由はわかりません。
推測するほかは無いと思います。
そもそも墓石等建碑に関しては、現在の感覚とは違って、家族縁者関わらず行うということは過去に多々あったようです。
極端なことを言えば意気に感じた武将など無脈絡恣意的に墓を建てるなどもあったでしょう。
「有名人の墓」があれば人々の参詣も期待できますから。
こちらのお寺のに関してはお二人とも駿府に屋敷があったはずで、当代の住職との関わりが深かったのかも知れません。よって今川時代に保護を受けていた寺の住職が、滅亡したとはいえその配下で昵懇にしていた?旧友の「無常」に接して建碑したというところがスジかと思います。
ご期待通りお答えできなくて申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いいたします。