標記。「人間という動物が他の動物と唯一違って思考すること」と、ある番組で語っていました。
「日本人は何を考えてきたのか」7/22NHK です。
「今どこにいるのだろうか、何してるのかな・・・」
見送った近親者の「なきひとの現在」について素朴に、しかし強く深く思うことはいたって自然なことですね。
つい先日まで自分と同じ場で元気に、またごく「普通」に相対し情感を共にしていた人がある機会を境に忽然と、一方のみが「想像を廻らすのみの世界に」立場を変えてしまうことに対してどんな人間も「そのこと」に「受け入れがたい悔恨」を心底一杯に積み重ねて思い悩むものなのです。
そのことへの自分なりの理解をしていくことになるのですが、それには多くの時間を要してその間ずっと、苦しみ、もがくこともあるでしょう。
他者(友人であっても)は、まず大抵はまったくその同等の立場にはありませんので(受け取り方に多少なり温度差があるのは当然です)、自己のみが重い課題を背負って、ますますこの状況の消化が不安定になってしまいます。
そこのところ、やはりじっくりと時間をかけて、できれば原点・・・「浄土の思想」にどんなに遠回りしても辿りついて欲しいというのが私の思いです。
愛する者の人生の終焉に接しての深い悲しみについて、私なりに理解できているつもりですが、それぞれ皆さんが感じる「時間的利益の喪失と別れの悲しみ」についてはやはりみなさん自身において治めていかなくてはなりません。
そのためにもそれらを意識の中から薄めていくよう(集中できることを見つける)努めていく必要がありましょう。
それが「一所懸命に生きる」ことだと思います。
たとえ人間以外の動物が「死」そのものを理解(本能的?)できたとしても
「その後」のことを思量するという行為はあり得ないでしょう。
よってそれは人間だけが特別に苦しむ領域だと思います。
死という事実に接して、どうも真宗的坊さんの発想では即「お浄土にて」が機械的に刷り込まれており、また宗旨の原点もそこにありますので特にそういった(その後の)方向はあまり深く考えない態度にあります。
これも一つの諦観が備わったということかもしれませんが・・・。
それが「故人はお浄土で既に安寧の暮らしの中にあり、かといって浄土に居ついているだけで無く即座に現世のあなたのそばに帰り来る」です。
しかし、そのように実際に私が見たこと経験したこともないこと(当然に皆さんもそれを知っています) を断定的に語って、もしかするといよいよ御縁の方の「消化不良」を助長させていやしないか思うこともあって、そうなると私自身が消化不良になります。(つくづく「寺と私」の存在意義を自問する時です)
いわゆる「現実事案(死)の正しい消化(受入れ)と新たなステップの必要性」という前向きな思考が「そうでなくてはならないのだ」とあまりにも強調されすぎて、ややもすると遺された方々に「正しい悲しみ」へのフォローができていないとも感じてしまうのです。
蓮如さんの「白骨のお文」(五帖16)などは「つきつけられた現実への対応と後生の一大事を心にかけて、念仏者として生きること」ですから初めて聴く者にはなかなか手厳しく感じるかも知れません。
また、浄土真宗の思想が霊魂感については相容れない宗旨から、どうしても日本人がこれまで培ってきたその辺の感覚からは少し違ってきてしまうのは仕方無いことなのかも知れません。
しかしながら「お浄土にて」の思考は、やはり次の生へ強く生きるための必須条件なのかも知れません。
なぜなら遺された縁者の上記の違和感を解消することこそが故人の思いであるからです。
そのところを私なりに紹介するとき、たとえば『なきひとと代わってその立場が「あなた」であった場合はどう?』と投げかけています。
やはりそのとき、自身の死をも認識できて「その後」があったとしたら、自身の思いがけぬ逝去には戸惑うものの自身の愛する者たちに対してはこれから存分に「生きてほしい」「与えられた人生を思いきり弾けてほしい」と思うはずです。
だからその意思に従って生きぬく気持ちを持つことが肝要なのです。
そのようないわゆる「悟り」的発想が出てくると次に「倶会一処」の境地に入ってくるのでしょう。
「倶会一処」(くえいっしょ)とは阿弥陀経の一節です。その四文字はまた門信徒の墓碑銘とされています。
意味は「今度は先に行って待っていてください。私のその時まで・・そこ(お浄土)でまた遇うことを楽しみにしていますよ」でしょうか。
さて「日本人は何を考えてきたのか 第7回」は柳田國男でしたね。
柳田國男の宗教観は一種独特で、仏教的宗教観とは一線を画す土俗的霊魂観にあります。
民俗学たる由縁ですがその番組で「遠野物語」 九十九話 を紹介しておりました。
「遠野物語」九十九話は私もかつて、当山報恩講の御逮夜などにて紹介させていただいています。
逮夜では津波という降ってわいた災禍によって死した者と残った者の情感を夜の法要らしくお話しさせていただきました。
ここに今一度記させていただきます。
「遠野物語」九十九話
土淵村の助役、北川清という人の家は字火石にあり。
代々の山臥にて祖父は正福院といい,学者にて著作多く,村のために尽くしたる人なり。
清の弟に福二という人は海岸の田之原に婿に行きたるが,先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い,生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
夏の初めの月夜に便所に起きいでしが,遠く離れたるところにありて,行く道も波の打つ渚なり。
霧の布(し)きたる夜なりしが,その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば,女はまさしく亡くなりしわが妻なり。
思わずその跡をつけて,はるばると船越村の方に行く﨑の洞ある所まで追い行き,名を呼びたるに,振り返りてにこと笑いたり。
男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯(つなみ)の難に死せし者なり。
自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。
今はこの人と夫婦になりてありというに,子供は可愛くないかと言えば,女は少しく顔の色を変えて泣きたり。
死したる人と物言うとは思われずして,悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に,男女は再び足早にそこを立ち退きて,小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。
追いかけてみたりしが,ふと死したる者なりしと心付き,夜明けまで道中に立ちて考え,朝になりて帰りたり。
その後久しく煩いたりといえり。
話はあまりに悲しすぎ、最後の「その後久しく煩いたり」は当然にそうであったろうと心が動かされます。
福二さんは実在の人物でした・・・。
画像は地頭方港から見た駿河湾。
昨日のニュースのようなことがこの穏やかな海で起こるのでしょうか。
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