徒然草 第四十五段「榎木の僧正」から。
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「公世の二位のせうとに(藤原公世~きんよ~の兄に)、良覚僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。
坊の傍に、大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり」
兼好さんのこの段、どうも違和感があります。
以前本堂正面のビャクシン(柏槙)―イブキを紹介いたしましたが当山の本堂南側には榎(えのき)の大木があります。
榎といえば菊川段平尾時代、大澤寺が本樂寺と呼ばれていた頃の伝承で寺が高天神の兵火で焼失した時、橋のたもとの榎に親鸞聖人の名号が舞い上がって引っかかったという話があって当山にとっては縁起のいい木でもあります。
私の感覚では良覚さんの坊の木が「榎の僧正」とあだ名されるくらいに当山の如く大きい木であったとすると、お話ではいとも簡単に伐採してしまっていますので、あの大木が「そう簡単にいくものか」と感じるのです。
「腹あしき」を今風に受け取れば「腹黒い」風の感覚がありますが、此の国のソーリの事ではありません。ここでは単純に「怒りっぽい」と解釈します。
しかし、いくら怒りっぽくてもあのデカさのシロモノを根本から切るなんて気にはさらさらなりません。それもあだ名にされたからといって。
また「榎木」と呼ばれることがそんなに怒ることだったのでしょうか。
まぁエライ坊さん(エラくなくともそうですが)の狭量で高慢な姿を滑稽に描いているといえばそうなのですがね。
かつてあの大木に幾度か上がったことがありますが、取っ掛かりにしたい枝の間隔が広くまた、太すぎるため相当気を使ったクライミングになりました。いわゆる勝負する(ザイル等の確保が必要な場面ですが手間をかけたくないためグランドフォール事故(地上まで墜落すること)のおそれのある「懸垂状態から這い上がる」)ことにもなってしまいます。
榎は枝が腐りやすく脆いため墓地にかかっている枝をはらう必要があります。
本堂の瓦の新装後に台風で折れた枝が当たって数枚破損しましたがこれらはすべて榎の枝が原因です。以前にも折れた枝が直撃して墓石を倒したこともありました。
そんなやっかいな大木で落葉の季節には大量の落ち葉をもたらし、大風が吹くたびに冷や冷やしている状況ですので機会があればもう少し切り詰めてもいいと思っています。
しかしいつもほどほどであきらめざるを得ません。それだけデカすぎてすべてにおいて苦労させられる木です。
「その根のありければ、きりくひの僧正と言ひけり。
いよいよ腹立ちて、きりくひを堀り捨てたりければ、その跡おほきなる堀にてありければ、堀池僧正とぞ言ひける。」
何を言われても腹が立つ性格は治らないようで。坊さんに限りませんが何をやっても気にくわずいつも怒ってばかりいる人はいますね。
切株も掘り起こすには相当の労力を要するもので、先日お醤油屋さん宅で大木を切り倒した際、業者さんはユンボ等の機材をフル装備で来ていましたが、そのまま放置したほどです。
ただ極端な例を面白く脚色して「人の本質」を記したものでしょう。
また『腹あしき』について「腹黒い」のだから「怒りっぽい」のだというのもまんざら「そういうこと」なのかも知れません。
また「人の口に戸は立てられぬ」とも言いますし。無駄な抵抗ですね。
「怒り」こそ滑稽であると。
画像は本堂南側の大木「榎」(えのき)と北側の「槇」(まき)です。
榎のトップに上がれば本堂の棟より高くなります。
また槇はかつてバブリーな頃「200万円でいかが?」と引き取りを打診されたシロモノです。
勿論お断りしたそうですが。
本日午後、檀家さんからたまたま庭木の伐採の話がありましたので天気も良かったこともあり久し振りに小振りながらヤマモモを切りました。
「大きく切って」ということでしたので、時間はかかりませんでした。
明日以降、好天でしたらあと2本切ることになっています。
「木を伐ってわが身のキレを思ふ盛夏かな」
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