小山砦のご紹介で憎まれ口を叩いた小生ですが、それにしてもあんな構造物さえ無かったら、いや天竜高根城や足助の真弓山城の様に「真面目」な発掘調査を根拠として歴史に忠実な再建であれば、とても粋な感じでもっともっと歴史ファンを集められたと思うと残念ですね。
今、世には「お城ブーム」というのがあるそうで、この最近の風潮は城跡に元あった構造物を復元しようというものです。「城跡」という稀有なそれらを所有する選ばれたものの観光資源を存分に活用としていこうという動きです。
それは厳密な復元をしようという活動ですのでそこには「嘘」があってはいけません。
文献を隅々まであたって学術的に綿密な調査を元に再現しようとしているのです。
要はホンモノ指向です。ところが小山城は拙速な動きでムダな労力をかけてしまいました。
さて、そんな残念な城ですが少しばかりヨイショしましょう。
小山砦(城?)はあの諏訪原城よりある意味凄い城なのです。
長篠の負け戦以降武田家は衰退の一途をたどるワケですがその辺りの流れについては今一度高天神城関係年表を参照してください。
どこが凄いのかって、それは諏訪原城とはまったく堅牢さが違うのです。
小山城 築城 元亀二年1571 落城 天正十年1582年 11年間
諏訪原城 築城 天正元年1573 落城 天正三年1575年 2年間
小山城がなかなか攻め落とされなかった理由は筋金入りの城将、大熊朝秀が守ったというのも大きいですが、その立地の違いにも着目していただきたいと思います。
現在ざっと現地の姿を見たところでは「100-0」くらいの極端さで諏訪原城が攻め落とされにくそうに見えます。
また小山城は大して高そうな山とは思えず組みやすく落としやすいという印象です。
ところが現実は徳川軍が手を焼いたのは小山城の方でした。
諏訪原城について記しましたが、「大井川由来の舌状台地の端」にあるのがこの地域の築城のパターンですが、この小山城もやはり例外ではありません。
諏訪原城と同じく大井川西岸の街道筋の丘の上に鎮座し、双方とも高天神城の陣城・付城として機能しました。
ではなぜ諏訪原城が築城後2年と少しで落城したにもかかわらずあのちっぽけな丘の小山城が10年以上も持ちこたえたのでしょうか。
決定的違いは勿論立地の違いと思います。
諏訪原城も小山城も同様に大井川に面した台地のへりにありますが、小山城の乗る台地は諏訪原城ほど大規模な台地ではありません。
台地からつながる根本の部分もアップダウンがあって平地上の段丘程度ではありますが四方攻めにくいむしろ孤高の「山城」のような感じだったと。
よって台地上からの侵攻は限定的でそれらに対する四方防御に集中できました。
下図Aが諏訪原城 Bが小山城です。
諏訪原城は台地上の先端というよりは大井川に削られた連続する台地上のへりの部分といった感じです。よって台地上に上がれば「平城」とまったく変わらない城でした。
ところが小山城はその名の通り、丘の様に小さな山の上ですが大井川の作った扇状地に鋭く伸びる先端部です。
400年以上前の遠州の河川下流は現在とは違い、葦の茂る低湿地だったはずです。
また海岸線も現在よりもっと内陸部にありました。
大井川は頻繁に氾濫し当時のこの辺りは舟で移動する方が当たり前の様な場所だったと思います。
また、城の東側には大井川の支流である河川が自然の堀として流れ、砦は細くくびれた台地のまさに先端に位置します。
台地からも平地からもその侵攻はさぞ手を焼いたことでしょう。
湿地帯にあるという点で攻めにくかったのは大井川東岸、藤枝の田中城に似ていると思います。
一番上の画像は天正六年の小山城攻めの時、家康の陣場となった小山城北東側大井川近くの八幡神社です。
社の掲示板によると1712年の大井川の洪水で建物すべてが流失しているそうです。
秀吉だったらこういう地形の場合は勿論お得意の「水攻め」だったでしょう。
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