「東国」という地域名について考えます。
古来より「東北」地方については征夷大将軍職の成立時の蝦夷(えみし えぞ)や陸奥(みちのく)という地名で伝わりますし平安末期の武士の時代のはしりでは東国の武士を東夷(あずまえびす)、東の毛人(あずまのけにん)と蔑んで呼んでいました。
もっとも「三国志魏書 東夷伝」とありますようにもとは中国漢民族からみて日本国全体を「東夷」として呼んでいたという歴史があります。
いずれにせよ文化的に劣ったもの(夷=大なる弓=好戦的で野蛮)として見下した言葉ですね。
これは国家も文化的経済的に充足しまた成長すると全般優越感が広がって周辺他国を劣った国であると決めつけ、終いにはそれらを取り込んでしまう大義名分とするのが人類の侵略の歴史です。
時には援助救援という言葉に変化させて侵攻の大義とすることもありました。
「自分の側が優れている」「あいつらはダメ、バカだ」と思った瞬間が、実はそれこそが好戦的で侵略的な発想であることも私たちは学習しています。
今でいう「東国」とは関東地方またはそれ以東のイメージですが、本来、関東地方については「坂東」(足柄坂~駿河・相模、碓氷坂~長野・群馬~から東側の意)と呼び、「東国」と言った場合とはだいぶ意味合いが違ってきます。
古来より「東国」とは東海地方、今の静岡県から南関東地域と甲信地方を指しました。
そう、遠州のわれらも都である京からは蔑まれ差別されてた辺境の民、「東国」の田舎夷(いなかえびす)の一員でした。
もっともその頃の東国在住の者たちは元は京・大和周辺在住からの開拓者または大陸から帰化した人々も多くいたはずです。
それらの人々は永住の地を求めて、元来の先住の人々を追いやりながら、列島を上がりました。
先住の民はあるいは侵入者と混血し、あるいはさらに北方に追いやられて(オニになぞらえ迫害されて)というのが日本の歴史です。
外国人嫌いのあの都知事が 日本人の「純血」についてその論を聞いたことがありますが、はなっから日本人は大陸系モンゴロイドと南方系そして在地先住民の壮大な混血国家なのです。島国による独特な閉鎖的な国家の国民のままなのです。
有名な万葉集に収録された防人歌(さきもりのうた)、東歌(あずまうた)は東海地方より「東の者」たちのものでした。
当たり前ですね。
当初「防人」を出すべき諸国はこれ「東国」から、と決められていたからです。
任期は三年と長く従事者はすべて遠江以東の東国から徴兵されることになっており、任務中も税は免除されるような特権はないため、徴兵された家々にとってはダブルで負担しなくてはなりませんでした。
「大宰府」の配下になって北九州や周辺の島に派遣され軍事と農耕に従事しましたが当然に士気は低く「やる気無し」の軍団だったと聞きます。
また徴集された時は役人らに九州まで引っ張って連れられるのですが、任期終了時は現地解散となりました。
帰郷の際地理不安定で放り出されるため、途中で倒れて亡くなったり家まで辿りつけなかったという例もあったようです。
この国の御先祖さまの政(まつりごと)も昔から他者の苦難を顧みずに3Kを他者にやらせることはお得意だったようで。
やむを得ぬこととして通常考えられるとすれば「地元の九州」からというのが合理的なのですが・・・。
そういうこと(3K)はまず、まったく発言権のなかった遠州以東の民の御役だったのです。
画像は遠州、磐田駅前の家康御殿跡公園に建つ防人の歌碑です。
「かしこきや みことががふり 明日ゆりや 茅がえたねむ
妹なしにして」 国造丁長下郡 物部秋持
恐れ多い勅命を受けて出発する 明日からは草の上に寝ることだろう
ひとり 愛するあなたもいない (まったく クサクサだ)
「わが妻も えにかきとらむ 暇もか 旅行く吾は 見つつ偲ばむ」
長下郡 物部古麻呂、
妻を絵に描き写す時間があればありがたいのだが
長旅を行く私はせめてその絵を見て妻を偲びたい
(そんな時間も無いのかよ)
私の様な者がこれらを見ると、貧乏くじをひかされて防人に引きずり出されるような人々(差別対象のあずまえびすと呼ばれる下賤の者と呼ばれた人たち)であっても「何て教養があって感情あふれる歌がつくれるものなのだ」と驚くばかりです。
戦争等の「国家的行事」に駆り出される庶民の感覚はいつの時代も同じです。
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