通夜式には法名授与式でもある帰敬式をとりおこないます。
前回はその式に使用するアイテムをご紹介いたしましたが本日はその時勤修される「偈」について記します。
事前に本山等で法名をいただいている方であっても帰敬式自体そう時間を要するわけでもありませんので、「その時のイメージ再現」という意味で私は通夜=帰敬式のつもりで出仕しています。
これまでは通夜には次男が来てくれましたが高校に入ってから部活にどっぷり、毎日夜8時過ぎの帰宅はザラとなりましたので一人でのお勤めになります(時間調整が合えば出来るだけは出てもらっています)。そのほうが部活でクタクタに疲れたのを引きずり出して隣で居眠りされてコックリされるよりはマシなので気はラクです。
父子ともども恥をかくのは毎度のことで仕方ありませんが、今のところ高校生になったとしても通夜に次男を同伴させることを喜んでくれる方がたくさんいらっしゃることは確かです。
部活で忙しいと言いながら本当はどこかほっつき歩いて遊びまわり、「そんな事を知らないのは親だけ」なんてことは無いとは思いますが・・・あの世代、わかりませんね。
さてその帰敬式=おかみそり=法名授与式の偈ですが画像の四行×2回とあとの南無帰依+仏法僧の3行を読誦します。
その間に例のおかみそりの儀として剃刀の真似事をします。
他宗派についてはまったく不勉強で心得ませんがどちらの宗旨でも何かしらに使われているとか。
この偈は古い経典が出典で、とても味のあるものだと思います。
しかしながらお西(西本願寺~本願寺派)では1986年の統一見解としてこの「流転~」を廃し、「無量寿経」の「其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転」にしようという意見があったそうですがその後どうなっているのか知りません。
推測ですがお寺によって色々なスタイルがあるのかも知れません。
「三界の中に流転して、恩愛断つことあたわずとも、恩を棄てて無為に入るならば、真実に恩に報いる者なり」
流転三界中 迷いの世界を輪廻している間は
恩愛不能断 恩愛を断ち切ることは難しい
棄恩入無為 だが、思い切ってそれらを棄て仏門に入ることこそ
真実報恩者 真実に恩に報いる者なのだ
流転三界中~の偈は「清信士度人経」という経典からの一節ですが私が好きなのは源氏物語、平家物語などの古典にも引用されている点です。
源氏では54帖のうちの51帖から最後までのクライマックスに登場する「浮舟」という恋多き御嬢さんが宇治川に身を投げて、打ち上げられた所を奇跡的に横川(よかわ)の僧都に助けられ出家するというお話です。
横川の僧都とは正信偈でもお馴染みの恵心僧都こと源信僧都がモデルと言います。
余談ですが以前、例のTV「お宝鑑定団」にお遊びで当家伝来の源信僧都作といわれる阿弥陀如来像を出したことがありましたのでご門徒さまの中には御存知の方もおられるでしょう。
また「平家」では第十の維盛出家です。
美貌の貴公子、光源氏の再来と称された平維盛は大将軍として富士川・倶利伽羅峠の戦いに向かいますがご存知のようにボロ負け。
早々に戦線放棄して悩んだ挙句、入水してしまいます。
大抵この文言が出てきた時は何故か「人生に疲れてどうでも良くなった」時「負け組の烙印を押された」時なんですね。
まぁ物語ですから過分に演出されているのでしょうが。
「そういう場合にはコレ」といういわゆる決まり文句だったと思います。
敢えて真宗的にのっとって付け加えれば
この偈をもって「お剃刀」を受ける態度としてはまったく逆なのです。
「よっしゃあ、これからやってやる」の如く、仏の道に沿った生き方への名のりであると思います。
この諦観こそ人を強くするのだと思います。強く生き抜くための自らの印として。法名をいただきましょう。
帰敬式は仏法僧(「仏」と「法-仏の教え」と「僧-サンガ~仲間」)=三宝。
その三宝に「帰依して敬礼」することを宣誓する(信仰)儀式です。
仏弟子として仏道を歩む宣言でもあります。
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裏を問う (月曜日, 27 4月 2015 21:19)
> 流転三界中~の偈は「清信士度人経」という経典からの一節ですが
とありますが、大正蔵にありますか?
道宣の著だという情報にも接しましたが、該当する部分(大正蔵40の150A)は道宣が「清信士度人経」より引用している部分であり、典拠とならない。
一体、「清信士度人経」とは道宣の引用に垣間見るだけの伝失した遺経の一部に過ぎないのではないのですか?
今井一光 (月曜日, 27 4月 2015)
ありがとうございます。
「伝失した遺経の一部に過ぎない」との感、もっともだと思います。
実をいうと仰る通り、私もその出典に行きつくことはできませんでした。
私もブログにて半ば断定的に記しましたが、そこのところは反省しなくてはなりません。
とかく「流転三界中~」の部分は私どもはもとより仏教界他文学作品にても都合よく
使用されている偈文で、いわゆる転用の繰り返しが起こっていると言ってみいいフレーズ
になっています。
そういった流れの中で「清信士度人経からの一説です」という紹介も欠かせない言葉となっているのだと思います。
その典拠はこれであるという伝承を受け継いでいるのみであって、それが今あるのみ、実の典拠を示すことはできません。
今後通夜式等で紹介する場合は、その典拠は不確かであることを一同に示す必要があることを痛感いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
説得力を得るためにその曖昧な典拠を提示することに関してはどうかと思いますが
本質はその偈文の表す「無常観」と「儀式の遂行」であるため、典拠は不十分ながら
「まぁそんなものだろう」的な安直さから参考程度に明示してきたのだと思います。