騎馬上の母衣懸けの鎧武者は戦国合戦を描いたドラマにはまず必ずと言って登場するスタイルです。
「母衣」は「ほろ」と読みます。懸保呂(かけぼろ)とよばれる武具で鎌倉以前から騎馬武者の当初「お守り」程度の防具として装着されました。幌、保侶、武羅とも書きます。実効性としてはマント状の衣で常に風をはらむように走っていなければ意味がありませんでしたので防具としての効果は相当疑問です。
その後徐々に発展し平家物語「一二駆」の段、一ノ谷の戦、御存知法然上人門下で親鸞聖人と同門同僚になった熊谷次郎直実の記述です。
「熊谷がその夜の装束には褐(かち-濃い藍色)の直垂(ひたたれ)に赤革威(あかがわおどし)の鎧着て紅の母衣を懸け近太栗毛(ごんだくりげ)といふ聞ゆる名馬にぞ乗つたりける」
上の画像は「一二駆」のもう一人の主役平山季重(通称、「平山武者所」東京都日野市平山出身)の図です。平山は熊谷と同僚でこの二人の関東武者の先陣争いの活躍が平家滅亡へとつながったと言っていいかも知れません。
「平山は滋目結の直垂に緋威の鎧着て二引両紋の母衣をかけ目糟毛という知られた名馬に・・・」とあります。
平山の郎党で可愛がっていた「旗差し」を敵に弓で射殺され、怒り心頭、ブチ切れ状態で突進し矢を放った者の首を掻ききってそれを左手に掴んでいる図です。白地に二本線の母衣が目立っていますね。
しかし他の騎馬武者は母衣を装着していません。
このように母衣はすべての騎馬武者が装着できるものでも無く、一部の許された者、あるいは特殊性ある仕事を差配するリーダーたちの一種のステータスシンボルでもあったようです。いわゆるファッションのようにイメージは発展し母衣の色、デザインは勿論、「お気に入りの言葉」などを入れるようになりました。
しかし実用面でもある程度、防具として計算されていきます。
騎馬背後から迫ろうとする敵方は母衣が邪魔して組みづらいことは確かですし背後から放たれた矢は空気を孕んだ母衣に力を削がれて致命傷を与えられなくなります。
また、ちなみに母衣は代々家の伝来としたり凝った装飾をされたりしたものがあったため個人としても重要なアイテムとして大事にされました。
本末転倒の状況で少しばかりおかしなことになっていたかも知れません。
大河ドラマ、武田信繫の最後のシーンで「この首をとられることは良いが母衣を取られることは口惜しい」と、家臣に母衣を脱いで託しその後皮肉にも敵の武者に背後から討たれてしまいました。
敵方雑兵からはそれを掲げる「母衣首」の奪取がポイント高く当然に目標となりました。
勿論母衣武者の首は母衣とセットで取ることが常識となっていたようです。
母衣がエリートに許されたアイテムということからそれを背負っているということで首ともども取った時は大変な手柄だったはずです。
戦国時代に入ると特に「防御性」「目立ち度」をアップさせるため竹を編んでカゴ状のもの(母衣串)を作り衣をかけてさらに吹き流しなどを装着しました。
それらを装着できる者たちを十名ずつ選んで特殊なエリート、精鋭部隊を作り上げたのが織田信長の黒母衣衆、赤母衣衆です。選ばれたのは家来衆の次男三男、あるいは当初人質として近習にして可愛がった馬廻、小姓たちでした。
彼らは多くは使番(つかいばん 当時の情報伝達手段として必要不可欠の職種で重大使命)として働いた例を耳にしますが、信長時代はそれに限らず槍隊、鉄砲隊各部隊の統率を始め、後方支援から本陣警護にいたるまで今でいう会社の部課長クラスとして動き回ったと思います。
例の槍衾の隊列をすぐ後ろで指揮にあたったのも彼らでしょう。
信長を真似て子飼いの精鋭として「黄母衣衆」を並べたのが豊臣秀吉でした。
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みっぱ (金曜日, 13 7月 2012 19:51)
いつも楽しく読ませていただいております。
今井一光 (金曜日, 13 7月 2012)
ありがとうございます。
ヨウズ (日曜日, 11 6月 2023 08:59)
楽しかったです。とても母衣のことがよくわかりました。
今井一光 (日曜日, 11 6月 2023 18:29)
ありがとうございます。