人生色々、最後に落ち着いたお江与(お江)の嫁ぎ先は徳川秀忠でしたが、年上女房のお江に、秀忠は相当気を使っていたようです。
側室を「娶って当然」のご時世、秀忠は公然と「側室」として迎えた女子はいませんでした。
しかしそれはあくまでも表向きであって、今でいう「カミさんにバレたら殺される」風の秘密があったのです。
高天神城将(武田方)でお馴染みの岡部元信の系統に岡部貞綱が居ますがその貞綱の娘はのちに大姥局(おおうぱのつぼね・・岡部局とも)と呼ばれた秀忠の乳母です。その大姥局の侍女が「静」で、秀忠はちょっとした出張時等の機会にその「静」とできちゃいます。そして彼女との間に「幸松」という男子が産まれ、武田信玄の次女である見性院(穴山信君正室)に預けられました。
※名家好きの家康は滅んだとはいえ、武田の流れの家系を自分の周囲に重用しています
その子がいわゆる三代将軍家光の異母弟、保科正之です。
兄の家光は当初は弟とは知りませんでした。あるとき弟であると知らされると家光は正之を非常に可愛がり、会津藩の大名として引き立てます。
その家系が会津松平家の元です。
その保科正之について「常山紀談」に「小櫃与五右衛門会津神公を諷諫せし事」とあります。諷諫(ふうかん)とは「遠まわしに忠告すること」です。
小櫃与五右衛門(おびつよごえもん)が殿の保科正之に問われて答えた言葉です。そこでは忠告と捉えられていますが当時の人の純粋な感覚として特筆すべきものと思います。
保科正之の問いは、現代たくさんの書籍等にまで溢れんばかりに出版され、あたかもその追求こそが我らの願いであるかのような大層な流行り様の「幸福論」についてです。
保科正之より「あなた方の『幸福』とは何?」というような質問がなされました。
今書店に並んだ幸福論とはまったく違う約400年前のその心、捉え方を読み解きください。答えが出ている様な気がします。
家臣の小櫃与五右衛門がおそるおそる「それは2つあります」と答えました。
「私の幸福とは・・・」
①貧乏。貧乏ゆえに驕(おご)りを知らず、礼儀の道を知る
②大名に生れ申さず 是れ大なる冥加と 常々天道に対し 有り難く存じ奉る
ここでも「天道」という言葉が使われていますね。
今風に一言で言えば明らかに①はカネ②は名誉です。
「カネが無くてよかった、名誉が無くてよかった」ということでしょうか。
画像は高天神城、西北「林ノ谷」の板倉定重と岡部丹波守真幸(元信)の
討死の碑
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