ここでの新宗教とは江戸から明治初期のものもそう呼ばれることもありますが、特に明治以降のものについてです。
特に戦後、憲法に記された20条の「信教の自由と政教分離」に基づいて次々と新しい『教え』が流入してまた、それぞれ「繁盛」してきたものです。
中には「政教分離」の規定があるのに国政に参加しているグループもある様ですね。
我が宗派でも中には僧侶として個人的にですが政治世界に身を投じている方もおられるのですが、宗門全体から政治に関与しようという思考は浮かんできません。もっとも浄土真宗のご門徒様を見ていると右から左までそれぞれで、まさに「色々意見があっていい」という、とても寛容な教えでありそこには「政まつりごと」に対しては口を出さないというしっかりとしたスタンスがあります。ただし、こと「いのち」に関わることには口うるさく執拗に語らなければならないという責任感に駆られているがの如く意見を発信しています。
たとえばこうです。
2012.06.12の東本願寺の声明文より
「大飯原子力発電所再稼動に関する声明」
6月8日、野田内閣総理大臣の大飯原子力発電所再稼動の表明に対して、
真宗大谷派では6月12日、宗務総長名による宗派声明を発表しました。
「真宗大谷派は、福島第一原子力発電所の事故以来、一貫して「原子力発電に依存しない社会の実現」を目指してきました。
私たちは、福島第一原子力発電所の事故により、ひとたび放射性物質の拡散が起これば、取り返しのつかない事態に陥ることを、改めて思い知らされました。そして、原子力発電の「安全神話」も「必要神話」も、経済を優先するあまり、人間が創り出した闇であったことを認めなくてはなりません。
今なお、福島第一原子力発電所の事故で多数の苦しんでおられる方がある中で、一旦停止した原子力発電所を再稼動する理由に、人のいのちよりも優先すべきことがあったのでしょうか。
ここに、真宗大谷派は、このたびの野田内閣総理大臣の大飯原子力発電所再稼動を表明されたことに対し、強く遺憾の意を表明いたします。
あらためて大飯原子力発電所はもとより、他の原子力発電所も決して再稼動することのないように、念願するものであります。」
2012年6月12日
真宗大谷派(東本願寺)
宗務総長 安 原 晃
私どもが信じる「親鸞聖人の語った阿弥陀さんへの信心」の中心となる真宗本廟からのメッセージは心強く、うれしく、まさにこれこそが「いのちの宗旨」を標榜するものだと思ったところです。
ところが悲しきかな政治的民主主義(選ばれた者たちによる多数決の論理)とは活動の場を異にしていますので国レベルの評決(国会)には対抗できません。
みなさんが経済活動や生活の質(これは政府の「語り」ですが)を少しぐらい犠牲にしても「いのち」に対しての危惧が僅かでも残存する畏れのあるものを廃除していきたいという気持ちを大きく持って行動すれば、宗務総長が発信したメッセージの「念願」にきっと結びつくものと信じています。
しかし我が宗旨、いや仏教界全般にいえる問題としては表題の如く、戦後流入した「新宗教」による仏教離れについても切実です。
この件は何より仏教界、宗派、各寺院、そして各各坊さんたちの力不足とその状況を放置してきた怠慢さが罪深いのかと思います。
何もわかっちゃいなかったのです。
それは「信教の自由」という半ば不可侵の免罪符でもって増殖した反社会的カルト集団もそうですが、社会全体への犯罪行為に至らなくとも十分に首を傾げさせられるような『教え』が雨後の筍の様に乱立して、社会にとって「これはどうだろう」という疑問がわき起こったにも関わらず、手をこまねいているばかりだったのですから。
ちょうど逆に寺が「葬式仏教」と社会から揶揄されはじめた頃と重なりますね。
(もっとも蓮如さんに「他流を誹謗中傷すべからず」といった考えもあることは「御文さま」で馴染んでいますので、少々行き過ぎた「自己は自己、他は他」という冷めた歩幅のきらいはあったかもしれません)
色々な場所を生活の場に代えてきた私ですが、場所によってそれぞれの地域に強い新宗教があることを知りました。
小田原は「K系TK」さん、横浜は「МOLさん」、「沖縄はSG」さん・・・・等々
以前回覧でご門徒様にお配りしましたが、ここ相良地区では菅山に本部のある「EHさん」の活動が筆頭です。
精神的に追い詰められて亡くなった私の友人が、知り合って結婚した相手がそちらの「信者」であったために彼は自身の「いのち」にとどまらず家族、家、財産すべてを失ったことを記しました。
足りない仏教の教え、怠惰な坊さんと寺を放棄し、自ら心より信じた宗旨に変更することは許容すべきことでしょう。
しかし、結果的に不幸の連鎖に沈んで死を選択せざるを得ない状況に陥る姿を見るのはいかにも悲惨です。
これを記そうと思ったのは、またも、檀家さんのある八十歳の一人暮らしの奥さんからそのご長男の「あの教壇」への入信について相談に来られたことがきっかけです。
あの台風前日の雨の中、止むに止まれぬ気持ちで寺の門をくぐったのでした。
聞くところによるとご長男に「家は相続してもいいが御内佛(仏壇)と墓地・遺骨に関しては相続しない」と宣言されてしまったそうです。
また奥さんはその宗旨での自らの葬儀は「御免である」との悩み。
やはり婚姻がきっかけだそうでその教団所属の女性を娶ったため「長男は変わってしまった」とその奥さんは嘆いていました。
どうしていいかわからず夜も眠ることができないという切実な悩みを赤裸々に語られていました。その場は他のご兄弟に相談し、「最悪の時はお寺で面倒をみるから・・・」という返事をしました。
ああ!家族を眠れなく悩ます宗教(やすらぎ)があっていいものでしょうか。
少なくとも仏教は、とくに我が宗旨は「おまかせ、絶対他力」で現代の勇ましい言葉が闊歩するその状況にはそぐわないのか、若い方々の意向が違うのか、はたまた過度な自由主義の反動で案外と規制されたりコントロールされることに安心感を抱いてしまう「日本人」の悲しき性(さが)なのでしょうか、あえてワケのわからない己を縛する宗旨を選択してしまうようにも受け取れます。
もっともそんな『教え』も当初はハードルは低く設定されていますが・・・(ちなみに国やら何やらしきりに団結や協力のイメージで旗印としている「絆」なんてことばの語源は「首を紐で縛り付ける」という意味ですね。
自由(→樂)を叫びながらその裏腹に実は「縛られたい」とでもいう思いがある表れなのでしょうか)
結構あるのです、変なウソみたいな「戒律」が・・・。
いわゆる「シバリ」ですね。
それを親が学校で子供に強制して、あるいは教師に強要して参加させなかったりするから、より一層ことの根を深くしてしまっている様です。
「不参加と特別」は往々に「いじめ」を生みますので・・・。
いじめられれば不登校になり、鬱になり、結局は社会から外れていくのがどこの世界でのならいでもありますね。
昔から結婚が家を潰すといいますが案外出鱈目なことではないかも知れません。裏をかえせば独身女性の信者を多く輩出すれば多くの家の宗旨を塗り替えられるということでしょうか。
何もできない力不足の自身が歯がゆい限りです。
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小山昭治 (月曜日, 25 6月 2012 12:13)
口では復興に尽力したいといっても
がれき処理はお断り、放射能は少しでもダメ。
これが現実。
まさしく 大義迷分。
人間は浅はかです。
経済優先。欲は消えません。
一度受けた甘い汁はおいしいのです。
地元も県も国も・・・
そういう自分は????
現実に降りかかったらどうするでしょうか。
武士は喰わねど高楊枝。果たして???
アレフに入信する人は迷っているのです。
そんな風に迷っている人は大勢います。
何かに縋りたいのです。
今井一光 (月曜日, 25 6月 2012)
ありがとうございます。
その辺のところまたブログで記させていただきます。