「御前」とは、おまえ、おんまえ、みまえと読み、白拍子(遊女)、神官、僧侶への敬称でもありましたがやはり貴人・主君などの「座の前」面前の事を特に言います。隣の御前崎市の「御前」は一説に丘陵先端部にある駒形神社を敬って呼ばれたとも。
鶴翁山(かくおうさん)あるいは鶴舞山(かくぶさん)という山に今川の手で築城したおりに、今川了俊(貞世)は九州探題時代から菅原道真の太宰天満宮を崇敬して、この山頂に天神社を設けたことから高天神と呼ぶようになりました。
高天神城の「御前曲輪」は本曲輪西側直下の曲輪の名称です。
総大将も高天社も勿論本曲輪にありますので「その前」という意味が敬称「御前」です。
元亀の信玄、天正二年の勝頼来攻の際の御前曲輪の大将が斉藤宗林(東退組)でした。宗林は金持ちであったと言われ鎧の上から金銀の数珠(ネックレスの大判?)を掛けていたお洒落な武将でした。
標識は「AM」 の意になっていますが・・・。(コレ二度目のupでした)
こちらの墓地の北側、もう一段高い場所にも墓があります。
失礼ながら既に「藪の中」になっているお墓もあってこれからの季節は探し当てるのに苦難がつきまといます。
竹と藪をかき分けて墓石にまとわりつく蔓を剥がしながら見落としが無いよう一つづつ確認しながら進んでいくと、藪に閉ざされた一番奥にその墓はありました。
そんな中、目的のお墓を探し出した時、これぞ冥利に尽きますね。
「高天神の跡を尋ねて」より
渥美源五郎勝吉は少年の頃より大須賀康高に仕え、幾多の合戦に参加して勇猛果敢の豪傑として知られ、横須賀七人衆の筆頭で大須賀配下唯一の槍の名人であった。
天正二年六月高天神籠城の時、若輩十八歳にして上土方村を知行し、城内本曲輪の武者奉行を勤め、開城の時西退組に加わり大須賀康高の配下となって徳川方に属した。天正三年三月長篠合戦に出陣し敵首を多く取り深手を負いながらも勇戦し、大いに武名をあげた。以後康高の在る所必ず渥美在りの如く、高天神攻城を始め各地の戦いに勇名を馳せた。
天正九年春、高天神落城後も康高に従い遠征の軍に加わって各所に武勲をたてた。(中略)
天正十九年横須賀二代城主松平出羽守忠政上総国久留里城転封の際、これに従い、慶長六年忠政本地返りの時家康より七人衆に対してそれぞれ三百石妻子料を与えられたので、上総の横田に妻子を置いて自分は横須賀に仕えた。
慶長十二年五代城主忠政没し嗣子忠次、幼少二歳の為、大須賀康高の弟、久野城主五郎兵衛康胤、後見として横須賀を支配するに及び、七人衆は康胤の下知を喜ばず、何れも横田へ退去した。渥美勝義は親族多く横田の知行のみでは困難の為、自分が知行所であった上土方に引き籠り、元和二年六月六日病を得て行年六十歳にて没した。
御前山に埋葬された。「長盛院殿漏善叟無大禅定門」
屋敷跡を大屋敷と言い、大石氏が代々居住する。
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河東村出身者 (金曜日, 16 9月 2016 06:16)
和歌山県立博物館に褒美の品が展示されていますね。
http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/tokugawa-kasin/
今井一光 (金曜日, 16 9月 2016 07:57)
ありがとうございます。
ご提示いただいたサイトには入れませんでしたが、和歌山県立博物館はじめ
和歌山の地にいよいよ興味をそそられています。
特に特別展の「雑賀衆と石山合戦」なる講演会は垂涎です。
当日は外せない用事が入っていますので不可能ですが、何もなかったら日帰りでも
行きたいくらいです。
河東村出身者 (金曜日, 16 9月 2016 19:30)
http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/tokugawa-kasin/midokoro/midokoro.htm
リンクを間違えていました。
これも特別展なのが残念です。
今井一光 (金曜日, 16 9月 2016 19:49)
ありがとうございます。
紺地(勝色)に金の日輪初めてお目にかかることができました。
「あつみ源五郎」のなのりのしるしもイイですね。
著作権で怒られるかも知れませんが、こちらの画像を是非に
アップしたいと思います。河東村出身者様のリンク先も同様です。