御前崎出身で横浜在住の友人には休みの折々、墓・城の放浪に同行してもらっていますが、彼の母方の旧姓は「匂坂」といいます。
遠州ではごくありきたりの苗字です。
管狐の段で古文書をそのままアップしましたがその代官の名も匂坂でした。
読み方も「さきさか」と呼んだり「さぎ」と濁ったりまた「向坂」「鷺坂」書き方はまちまちです。いずれにせよ元は同族で、遠江匂坂郷に居住した国人クラスと思われますが今川氏親の遠州奪取の頃、その支配下に入ったようです。場所は天竜川東岸で西岸の曳馬城(引馬城、引間城)→浜松城の対になる要衝でした。武田信玄は浜松と高天神を分断するために匂坂城を落とし穴山梅雪を入れています。
今の匂坂城跡はこの石碑が畑の真中にポツンと建つのみで遺構はまったくといっていいほど残っていません。画像奥の段丘上に匂坂一統の屋敷があったと言われますが南に少し行った所には、東名遠州豊田 スマートICから出入りのできるショッピングセンターの「ららぽーと磐田」があります。
そして台地を北に行くと、新東名の手前には匂坂兄弟(政信と吉政)の父親で匂坂六郎五郎長能(筑前守 従五位下)が当地に根を下ろす最初の城、社山城跡があります。
長能の室は高天神城主の「小笠原興八郎の女(よはちろうのむすめ)」ですから兄弟の母親と考えるのが普通ですね。
よって兄弟はチャキチャキの中遠の人であり私の思い入れがことに深い高天神衆とも言ってよい一統です。
斯波→今川→徳川→今川→徳川と目まぐるしくこの地の主支配者が変わる時代に三州への替地や匂坂から別の姓への変更がありましたが結局はこの地に収まります。
この匂坂政信と弟の吉政兄弟が姉川に出陣してあの大刀を振り回す身長196cmの大男、真柄十郎左衛門直隆を討取りました。
信長公記には別人物の名がさらっと記されていますが信憑性は詳細に語られた「武家事紀」という資料からこれ・・・。
「十郎左衛門は五尺三寸の大太刀を振り、匂坂家の六郎左衛門式部と交戦します。大刀の一撃を兜に受けて式部が槍を落としたので、弟の五郎二郎が入替わり、そこに新たに、六郎五郎吉政が郎党の山田宗六とともに応援に駆け付けました。十郎左衛門は五郎二郎と山田宗六を斬り伏せますが、その隙をついて吉政が十文字槍で討ちとりました。」
兄の政信は家康からは刀を褒美として賜りまた信長からも「長」の一字を下賜されて「長親」と名乗りました。しかし吉政は惣領を巡ってか兄の子を殺し、また殺した子の子に殺されたといいます。
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匂坂竜歌 (土曜日, 23 6月 2012 15:16)
こんにちは
僕は、
匂坂竜歌(さぎさか りゅうた)です
親から匂坂城のことは聞いていました
でもここに書いてることは分かりませんでした
役にたちました
今井 (土曜日, 23 6月 2012 18:00)
匂坂様、コメントありがとうございます。
「役にたった」などと記されますととてもうれしくなってしまいます。また好き勝手に記させていただきますが、よろしくお願いいたします。
匂坂 (日曜日, 13 11月 2016 05:33)
名字が同じで光栄です。
自分も歴史に残る人物になるように生きます
今井一光 (日曜日, 13 11月 2016 07:57)
ありがとうございます。
多少の誇張はありますが歴史上の登場人物からは
現代人にない豪快さ潔さ清らかさに触れることがあって新鮮ですね。
匂坂様の大いなる決意に敬服いたします。
同姓 (木曜日, 23 11月 2017 02:43)
偉大な名字だったんですね、
同じ姓の者として誇りに思います。
今井 一光 (木曜日, 23 11月 2017 12:37)
ありがとうございます。
遠州忩劇時代突入直前の匂坂家は今川家有力家臣団として名があって
天竜川対岸の国衆のとりまとめ役にもあったようです。
特に井伊家と蜂前神社との仲介する文書は著名です。
匿名 (日曜日, 19 5月 2019 18:00)
この事実をたくさんの方々に知って頂きたい。
同じ姓を名乗る者として誇りに思います。
今井一光 (日曜日, 19 5月 2019 19:59)
ありがとうございます。
匿名 (月曜日, 29 8月 2022 12:46)
我が一族には、徳川家の旗本伝があります。本当です。
明治末生まれの父の本籍は、本所区で、少し南のとこには
江戸末期の地図に、向坂家が載ってます。
向坂↑ (月曜日, 29 8月 2022 12:57)
↑ 匿名→向坂
今井一光 (月曜日, 29 8月 2022 14:08)
良きご縁を
ありがとうございます。
深い歴史とその流れを感じます。
念のため (火曜日, 27 9月 2022 21:04)
家紋は、抱き茗荷です。
今井一光 (水曜日, 28 9月 2022 06:51)
ありがとうございます。