忠勝の「勝」を「ただ勝つのみ」のように多少調子にのって記しましたが、真宗の経典中にも「勝」の字が多く使われています。
しかしまず、それら文書(もんじょ)の中での「勝」の字の使用は、他者に対して雌雄を決するが如くの勝負事での場面ではありません。
(天親の願生偈・・・「勝過三界道」三界の道に勝過せり 「触者生勝楽」触るるもの勝楽を生ずる 「勝妙無過者」勝妙にして過ぎたるものなし
善導の無常偈・・・「勝縁勝境」すぐれたありさま 等々)
そうです現在使われる「勝」は相手が必ずあり、また必ずその語の裏には「負」という語が隠れています。
しかし仏典に登場する「勝」はまず大抵、一言で言えば・・・「すばらしい」「卓越している」あるいは「浄土」そのものの意でしょうか。
よって本多忠勝の名は「忠義に傑出した者」と捉えます。彼はまさにそのような生き様でありました。
往時より、その「名」(諱 いみな)は相互でストレートに呼び合うものでなく元服の時に付ける(武士は原則二字)ので余程懇意にした者でなくては知りえないものでした。また、たとえその名を知っていたとしてもその実名を称することは「ひどく失礼」にあたることでした。
よって「忠勝」などと名のることも呼ばれることもまずは無かったことと思います。 勿論呼び名は、通称の「平八郎」です。
日本全国すべてそうであったはずです。
官位があれば官位ですし居館がある場所、地名に「殿」を付けて呼びました。
諱(いみな)は「いむ」で「忌む」=本来ならば口に出すことは憚られる言葉から生前にその名を呼んではいけない習わしだったと思います。
時代劇で信長様、秀吉様、家康様なんて格下の者が言うことはまず無かったこと、いやあり得ないことかと。
一説に本当の名を知られるのは相手の支配下に入るという迷信があるとも聞きます。
また偏諱は天皇、将軍、領主が二字の名の半分(一字)を優秀と見た家臣に下賜しました(一字拝領)。下賜される=このうえない名誉でありました。
後醍醐天皇の「尊治親王」の「尊」を下賜された足利尊氏、また信長、秀吉も色々なところに「名字状」という書面を発行しています。
「通字」は御存知、代々その家で名前に入れる字です。
徳川家では「家」織田家は「信」等で一字を使いました。当今井家では代々「祐」が付いてます。私の場合はどうなるか知りませんが亡きあとに法名を改めて付け直すのでしょうね・・・ 釋祐光かな?
画像は徳川勅願寺、本多家岡崎本陣の岡崎城を意図的に一直線上に作られた大樹寺正門から眺めた図です。この寺は松平家代々の墓所であり初代家康から十四代までの各臨終時の身長と同じ大きさの位牌が安置されています。
岡崎市土地区画整理事業としてこの直線状に高層建造物の建築は抑えられています。
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