月日の論にはおよびがたし 本多忠勝

本多忠通の墓
本多忠通の墓

本多忠勝は家康の「すぎたるもの」の

2つのうちの1つと数えられた筋金入りの男です。

 

「人たらし」の 豊臣秀吉には小牧長久手戦後

日本第一、古今独歩の勇士

と称され、石川数正同様引き抜き、お誘いの話がありました。

 

成瀬藤蔵の甥っ子成瀬正成(犬山藩初代)は秀吉主催の朝鮮出兵の大坂馬揃えで秀吉の目に留まって、五万石をちらつかされましたが、

 

「二君に仕えず」という理由で涙して、「どうしてもとあれば腹を切る」と固く辞退しました。

ちょっとストレートすぎますね。

 

本多忠勝の御断りの言葉は気が利いています。

最近は月と太陽の天体ショーが続き、世間様では「こっちがいい あっちがいい」と他者に問いたり評価しようという声が聞こえてきますが、勧誘の問いかけはそもそも比較にならないものを比較しようとしているバカげた質問であると(そんなに憎々しくないですが)お誘いを一蹴した言葉です。

 

「月日の論には及びがたし」

 

小牧長久手で囮として出た手勢500の本多忠勝を8万の秀吉が「見逃してやった」ことに対して、「俺と家康どっちの恩が重い?」と。

 

そこで忠勝は「あなた様の御恩は海より深いものがあるがそもそも殿(家康)は家代々の主君であってそのような質問」には「月日の論には及びがたし」・・・。というワケです。

 

石川数正は後世「謎の出奔」といわれるようにこっそりと家康の元を離れていることは御承知の通り。

 

当山西方の小堤山にある本多忠勝のひ孫で相良藩初代藩主、本多忠晴の墓地 (4/9)を紹介しましたが、本日は相良藩二代藩主で忠晴の孫の忠通の墓地です。

相良長頼で紹介した画像の奥、海老江にあります。

 

相良藩15000石を継いで15歳で従五位下。

しかし不運にも17歳で没してしまいます。

子供も無く弟の忠如(ただゆき)が相良藩三代目を継ぎます

 

当初、菩提は「桂光庵」という寺にありましたが廃寺となって今は畑です。

墓地のみこちらの小高い丘の上に移されました。

その寺の歴代住職と一所の場所です。

墓石にはたくさんの文字が刻まれていますがまた時間のある時に。