相良館は人吉に下向した御家人、九州人吉(旧相良町は従来より人吉市と姉妹都市)相良家初代の相良長頼の館跡です。
鎌倉幕府が開かれたと同時期に九州へ頼朝の命で赴き、以後代々地道に世を渡り地頭から戦国大名として家系を残した相良家の祖です。
もとは藤原家流の工藤周頼(かねより)を祖とし工藤→相良へ改めました。
「鵜狩りやり〼」と称したか知りませんがこれまでの平家一門の人吉城主、矢瀬主馬佑をうまい具合におびき寄せてだまし討ちに。まんまと城に入ります。
凄いのは関ヶ原直前まで石田三成について伏見城を攻めておきながらも本戦では石田不利とみるやコロっと東軍に内応して家康に所領を安堵してもらっています。
館跡の標柱は本通り河岸(かし)より湊橋を渡った「どんつき」、相良中学校サブグランド手前の右側にポツンと建っています。
よーく考えるとこの場所は相良川(現萩間川)河口に近い扇状地、河川敷の様な場所。800年以上も前のことですから葦の原の湿地しか想像できないような場所です。
実際に居館跡が真実であるかは今一つ疑問ですがリスキーな場所に館をつくったものです。大雑把にいうと北から流れる川がこの先で急激に東へ流れを変える場所でL字型内角の中点に位置します。
田沼時代に「川の付け替え」という話はありますので当時の詳細は果たして・・・
画像右側を「大江」、画像左側奥の段丘の下辺りが「海老江(えべぇ)」という地名で古来入江になっていた場所でもあります。
最近でも大雨が降れば氾濫し対岸の大沢辺りの低地帯は腰まで水がつかっています。
標識の案内文に誤字がありますね。
高天神の斉藤館もそうでしたがしっかりと確認してから建ててほしいです。(他者の失敗を嗤えませんが・・・・そののち修正済み)
そして相良の人ならだれでも知ってる湊橋と新橋。
新橋は撤去の噂もありましたが地元の熱心な運動で残りました。
しかし車両の通行は不可。まぁ避難経路の確保ということでしょうか。
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