烽火之沙汰 ほうかのさた 塩買坂上

御前崎有ケ谷(中坂~塩買坂~)
御前崎有ケ谷(中坂~塩買坂~)

毎度この手の話は既に呆れ果てることなど通り越して、今となっては「やはりねっ」と言った感じ。しかし今更言われても・・・「あの時」の政府と東電とのやりとり上の「ぶっちゃけ話」が、今朝の朝刊紙上で目についた『伝言ゲームみたいだった』の談です。

 

正気の沙汰じゃない上記のバカ騒ぎはともかくとして・・・古来より情報戦も戦(いくさ)のうち。相手方の動きをいち早く掴んで次の一手を思案するために、各家様々な手段を使いました。子飼いの忍者のようなスパイ組織を家臣に運営させることは勿論、気象・天候の正確な予報、地理に詳しい者を金銭で買収するなどして案内させたという話は戦にはつきものでそれら事象へのアンテナの張り具合と労力が戦の勝敗を左右したことは言うまでもありません。よって伝達は正確さ至上命題で「ごっこ」じゃあ即滅亡、些細な抜かりさえも無きよう努めたわけです。

自然現象の予報は事前に天候等の急変を把握するという意味で、その機を窺うに大いに戦術として活用されたはずです。(雷雨に急襲を慣行した桶狭間、第四次川中島あるいは関ヶ原の濃霧、源平合戦の金環日食等)

伝言の方法で使い番、密使、間諜以外にストレートにまたスピーディに味方に情報を伝達する手段は狼煙(のろし)です。(あのとき「スピーディ【放射能影響予測】SPEEDI」という大金を投じて確立したシステムも『国民には内緒』にしたものですから結局は無用の長物だったことも記憶に新しいことです)

煙にはその色、燃焼時間、間隔を変えたバリエーションがあったかと思います。また夜間は松明を振ったり提灯を振り回したりして・・・・

烽火之沙汰は平家物語の清盛と重盛の親子の軋轢のエピソードですが詳細については各人にお任せします。

 

 古くは日本書紀あたりにもその記述があるそうですが「狼煙のろし」のことを「烽火ほうか」と呼び重要な伝言手段でした。目視できる数キロおきの高台に烽火台を設け次々にバトンタッチで国境からの変異を伝達しました。武田家の狼煙の伝達はかなり効果的に行われたことが判っていますが、狼煙の代わりに行われた「旗振り通信」なども最近まで普通に行われていた伝達手段です(最近=電信電話が確立するまで)。大阪の米の取引相場による価格を相場師がいち早く価格を知るための手段として使用しました。 

画像は塩買坂(性海坂とも)~「有ケ谷、中坂」は今の地名~の南東側高台、武田信玄、勝頼の陣場跡と推測される場所です。二番茶刈り取り前の緑が眩しいですね。「有ケ谷」(ありがや)は読んで字のごとくで牧之原台地(舌状台地)は葉の葉脈の様、谷が台地周辺に幾筋も食い込んで台地は天然の要害となります。

この辺りは対武田籠城戦、小笠原長忠城主時代の高天神城西の丸を守った本間氏清(うじきよ)配下の丸尾ファミリーが陣を張った丸尾平、丸尾原と呼ばれる今のお茶の生産地への西からの登り口でもあります。

高天神城への狼煙台(ほうかだい~烽火台とも)として櫓等の構造物他があったかと思います(起伏のない台地状に開けた場所です)。これは東方からの侵入者をいち早く察知し親城-高天神城に知らせるためです。

茶畑地主の松本氏によれば茶畑開墾当初は石積みらしき石が多く出てきたとのこと。

塩買坂は相良から菊川の平田に抜ける「塩の道」と呼ばれる街道筋で、昭和初期はバスも走ったと聞きます。(今はバス路線は廃され車両等は正林寺前を走る新道を行き交いますのでこの旧道は滅多に通行車両はありません)

近くには「鈴木家」の二件が薬の商いをしていたそうで(今では絶対に考えられない場所です)電話が無い時代は折々苦労して下の谷から台地に上がり回覧等を廻したとのこと。近年になってその家々は学業通学等の問題があって下に降りてしまったそうです。

画像の奥の雑木が無ければ高天神方面の台地が見えるのですが・・・。

 昭和中期までは中程度の灌木がまばらに植生する程度で今のように鬱蒼としてはいなかったそうです。これは村周辺の山間部の森林は生活燃料の材として片っ端から伐採したからです。当然に今は木を切って燃やす家はどこにもありませんから山の木々は伸び放題。植林もされています。

当時の城や砦の姿は自分の山に生える木々もどんどん使うので禿山になりそして一目でそれとわかる様、旗や幕を張って周囲に威容を誇りました。遠方からも人の動きが確認できるくらいに、目立ちまくったはずです。