国内城郭数ある中で「やっちゃった」お城がコレです。近隣にある城址で足を引っ張ったり憎まれ口を叩こうなどという気はさらさらありませんが(結果的にそうなってる?)当初はやり過ぎ、恥ずかしくて赤面、歴史ファンに面目がたたないと揶揄中傷の標的となった城です。
やはり長篠城近くで奮戦討死した小和田先生の御先祖様の馬場信春の縄張りは滝境城と同じです。今川時代から「砦」のあった山頂(というか牧之原台地特有の台地先端部分)なのですが周辺の幹線道路のトンネルにも武田菱の家紋と城代、大熊朝秀からとった「備前守隧道」の名が記されて地元としてはかなり力(リキ)が入っている様。
大熊朝秀は長尾景虎の出家出奔騒ぎのドサクサに武田方に降り山県昌景の下で働いて信玄直属にまで引き立てられました。勿論勝頼の代になっても重臣の一人に。彼の名をあげたのは、規模の小さな小山城(小山砦)の割に、なかなかしぶとく落とされなかったということもありますし、あの関東管領上杉憲政が北条氏康に追われる際に、家臣の離散・裏切りが起こる中、最後まで憲政に忠誠を尽くした上野箕輪城、長野業正・業盛父子の家臣で剣豪で名を馳せる上泉信綱と五分で切りあい、その際まったく傷を負うことがなかったという伝承があります。そのくらいの勇者かつ知恵者であったと。
さて、なぜにしてこの城が失笑をかうのでしょうか。
なにより単純、この砦に天守閣など無かったからです。
限りなくホンモノっぽい大嘘というのが恥ずかしいところなのです。
無かったものを歴史に反して、大見得を切ってこれみよがしに吹聴するという精神が痛ましいのです。おカネがたくさんあるのですね。
小和田先生もおっしゃっていますが、歴史の推測または復元は確固たる検証(発掘調査等)、史実を文献で詳らかにあたり学会等第三者の意見等をふまえて着手すべきと思います。鉄筋コンクリートの「なんちゃって」モノを威風堂々と建立すればするほど赤っ恥と思います。
以前高天神城本丸にも天守を建てた人がいらしたそうですが、結局今となっては朽ち果てて(落雷で破損したそうです)ベースのみが残っているばかりです。あのコンクリートの塊も早く撤去して欲しいものですね。
この立派な「天守さま」の前には武田方の特徴である馬だしや三日月堀も再現されていますが、実をいうとコレも「ホントかよぉ」と思ってしまいます。
ああ言ってしまいました。
吉田町のみなさんお許しを。
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