京都の「正面通り」とは、あまり馴染みのない名前ですが京都七条
通りと五条通りの間にあります。
関ヶ原、西軍ボロ負けの勇士、石田三成・小西行長の筆頭格はじめ
坊さん大名の安国寺恵瓊、大坂の陣で捕縛された長宗我部盛親・豊臣国松等豊臣家方々の斬首の場、六条河原もそのライン上です。
(七と五の間ですから・・・)
ここいらの河原で処刑された人々はこの時代に限らず古来より数多あって枚挙にいとまがありません。
余談ですが仏教でいう六の数字は「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道)輪廻」の思想がありますがおそらくその意が含まれているのでしょう。
四十九日法要(七が七回)を満中陰(~仏)、その「七」に満たないものを中陰というように人間界のドタバタを表わすのが「六」という数字だと思います。キリスト教世界でも「6」が3つ重なると無茶苦茶縁起が悪いと聞きますしね(6月6日午後6時に産まれた悪魔の化身ダミアンの頭に666の文字が・・・「オーメン」)。
さて、「正面通り」というからには何かの「真ん前」から延びる、それもいわゆる大通りクラスではなくてはなりません。
その何かとは・・・「大仏さま」です。
そこにかつてあった京都大仏のこと。
当時は今以上に広大な『方広寺』は秀吉が自らの死後と「復活への期待」を込めた壮大な輪廻転生ラインの中心的存在でした。
秀吉の浄土思想と末代栄華の算段
秀吉は自らの意図で本願寺法主を交代(→顕如上人譲状)させ京都に寺領を安堵したあと阿弥陀如来による西方極楽浄土の入り口を完成させて無事成仏することを目論んだと。
その後ラインの中間に配置した寺社の功徳によって東山の阿弥陀ケ峰に転生。そんなところでしょうか。秀吉が真面目にそれを考えていたかはわかりませんが自らの葬送とその神格化、末裔代々の栄華を大望しての行為であることは間違いないでしょう。
ところが秀吉亡きあと家康は方広寺鐘銘事件で「世紀の難癖」を豊臣家に突き付けるなど秀吉の「往生」そのものをも邪魔します。片桐且元が必死の弁明に東上しますが徒労に終わり、この件をきっかけに大坂の陣へと進み豊臣家は滅亡しました。
家康の秀吉計画邪魔の算段
①本願寺法主を秀吉が力添えして立てた三男の准如から家康を後見と
する長男の教如に戻しました
②本願寺は結果的に東西分流に収まりましたが秀吉の描いたライン上
に教如に寺領を与えて東本願寺(→当山六条御殿御役寺門柱画像)と
渉成園を建立させました
③豊国廟社殿を閉鎖しました
④豊国神社を方広寺の位置に降ろして方広寺と同地にしました
⑤秀吉が長男の棄丸(鶴松)の菩提を弔うために建立した祥雲寺を廃
し秀吉の仇敵根来寺の一院である智積院をわざわざ和歌山から呼び
寄せて豊国神社の管理を任せました
家康の思考も執拗で若干滑稽に思えますが、豊臣秀次とその妻妾子女30人余を斬首した三条河原からその恨みの血や遺骸は鴨川を当然に流れ下り秀吉の図った直線を分断します。
(後世になって秀次悪逆塚~「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」~と刻まれた墓石が発見されていますが河原の延長域であり河川の流れにより遺骨等流出していて発見されていません)→瑞泉寺
私がもしそういった因縁を面白おかしく語れる立場にあるのなら、大いにそれを理由にして秀吉の所業の末期的部分を吹聴し「豊臣家の滅亡は当然だった」と断定するでしょう。
また無用な朝鮮出兵を強行し多くの残虐行為を行ったことも同様です。方広寺門前正面通りにはその出兵による戦果の証である耳塚(鼻塚)もあります。
秀吉の武将としての才覚を讃えられるのは本能寺直後までですね。
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