大澤寺門前の「首据石」を寄進いただいたのは前述の本通りの野村家。「本通りの」というのは本家である伊東市に所をかえた野村家以外に分家が各所に広く散らばっているからです。
当家開祖今井権七と近江から当地へやってきた五家のうちの一家です。
今の相良本通りから市場(いちんば)を安堵され江戸時代は廻船問屋や呉服商を営んだ家です。
野村庄右衛門が代々の名のりでした。
野村家家紋はあの稲葉山城を16、7人で斉藤龍興から奪取してスグ返却したという逸話の残る竹中半兵衛と同じです。
半兵衛は1年ほど浅井氏に禄を得て近江に滞在していたことがありました。
さて、元亀元年の「織田・徳川 VS 浅井・朝倉」の「姉川の戦い」は織田信長、天下統一への過程における最大のヤマ場であったといえる合戦です。
勝ち組となった徳川の世になってその姉川の戦いでの徳川勢の戦い振りを謳歌する傾向があり、大いにその戦の名は語られましたが、その戦の名はあくまでも徳川の世になってからの名称であり、戦った場所によって、織田、浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と従来から呼んでいました。
安土の広済寺門徒であった今井権七の安土とさほど遠くなく古くからこの地は「野村庄」と呼ばれ実際に野村姓を名のる人もおります。しかし半兵衛との関係は不明です。
一方、山科本願寺=「野村殿」にちなみ、その姓を名のった可能性とも静岡清水区の野村家先代様が記していますが、私はこの近江姉川北岸出自説をとります。
姉川古戦場バス停付近 近江近郷古文書署名
「 野村四郎右衛門 」
コメントをお書きください
野村幸一 (水曜日, 20 6月 2012 00:14)
初めまして。たまたま、野村庄右衛門で検索したらヒットしまして(^ ^)
読んでいくと自分の家の事が書かれていたのでテンションが上がりました!
自分は伊東の流れではなく呉服商をやっていた庄十の流れです。
以前、自分もルーツに興味がありかなり調べたことがありました。
今井一光 (水曜日, 20 6月 2012 07:59)
ありがとうございます。
庄十さんは八代目野村庄右衛門の次男で本通で呉服商を営んだ方ですね。
私どもの資料ではその子庄太郎さん-豊太郎さん-庄十さん-そして和子さん勝茂さんの流れになっていますが・・・
七代目庄右衛門以前については過去帳もイイ加減でわかりづらいのですが明治以降(八代目)については比較的まとまっているようです。
ご連絡ありがとうございました。何かの機会がありましたら是非ともお寄りください。
野村幸一 (木曜日, 21 6月 2012 00:29)
かなり調べていらっしゃるようですね(^ ^)その通り、その息子になります。もしかすると、僕の名前もご存知だったとか?
庄右衛門や庄十が分家する前の情報など判るようでしたら教えていただけたら幸いです。また、お邪魔してみたいと思います。
今井一光 (木曜日, 21 6月 2012 05:28)
ありがとうございます。それでは「大当たり」だったのですね。
当家は8代目からの流れからではありますが、各家からの情報が比較的良く整理されていたようで幸一様まででしたら当方の資料に記されてありました。
その次になると更新できていませんが・・・。
また分かれになる以前の詳細については直系のみの名前程度を過去帳で知るのみです。それも「姓」があっても名前のみの記入が多く他と判別ができません。
いずれ遊びにいらしてください。
野村幸一 (土曜日, 23 6月 2012 12:45)
そうですねo(^▽^)o
ルーツの事も知りたいし、ご先祖さまの墓参りもせねば。。。
もう、今は伊東の本家は庄右衛門の名前は使ってないですよね~?庄平さんあたりから。。
僕が名前もらってしまおうか( ´ ▽ ` )ノ野村庄右衛門って、結構気に入ってたりするんです。
今井一光 (土曜日, 23 6月 2012 19:51)
ありがとうございます。
伊東の野村家では先代(十二代)野村庄平さん~十一代文平さん、十代庄平さん~と「平」の字への転換が進んでいましたが現在は「庄」も「平」もこだわりは無いようです。
よって「庄右衛門」の名のりは見当たりません。
唯一御先祖を窺わせる名として相良には「乃庄」という料理屋さん(寿司と釜飯)があってその屋号として残っています。静夫さんの父、庄十さんの妹、八重子さんのお店です。
野村幸一 (土曜日, 23 6月 2012 23:01)
乃庄、名前は聞いたことがあります。一度もお会いしたことありませんが。
文平さんが亡くなったあと、一度だけ両親と本家に伺ったことがありますが、本家という立場に相応しい風格でこちらも頑張らなければと思いました。こちらも庄十の流れとしては本家筋になるので(^_^;)
庄右衛門の名前はこだわりもなく使われ
ていないのであれば、つかわせてもらうことにしますo(^▽^)o
今井一光 (日曜日, 24 6月 2012 00:03)
ありがとうございます。
「庄右衛門」とは今時、粋ですね・・・
私も知りうる限りのことを知った顔で記しましたがわからないことがたくさんあります。
相良にお越しの際は是非に乃庄さんで昼飯をご一緒しましょう。木曜が定休でしたね。
今井 (日曜日, 12 8月 2012 19:19)
残暑お見舞い申し上げます。
新しい情報がありましたらお知らせください。
よろしくお願いいたします。
野村 (金曜日, 31 8月 2012 21:03)
今井様、久しぶりに覗いてみたところ…9と11のコメントは別の誰かですよ。フルネームで書き込んだのが間違いでした。
うちは野村藩なんて話は聞いたことないです。
かなり個人情報を盛り込んでしまいました。申し訳ないですが、コメント等削除していただけますか?
今井一光 (金曜日, 31 8月 2012 21:15)
恐縮です。フルネームでまったく同じでしたからてっきりそう思ってしまいました。
#10野村様の仰るようにコメントを削除させていただきました。
コメントいただいた方申し訳ございませんが再度別のお名前で投稿ください。
また野村様、個人情報といえどもほとんど大多数の方が見ても判らないレベルと思いそのままコメントを残しましたが不都合がありましたらまたご連絡ください。
野村 (土曜日, 01 9月 2012 01:14)
対応していただきありがとうございました。
同姓同名の方はたくさんいらっしゃるでしょうが、ここの内容は今井様や私、身内以外には関係ない内容なので、イタズラの書き込みはやめてもらいたいですね。
うちの身内で同姓同名はいないのでf^_^;)
野村幸一 (金曜日, 08 4月 2016 14:55)
ご無沙汰しております。昔から興味があった花押について最近また熱が入りいろいろと花押について調べています。大澤寺代々の御住職は花押は使用されてましたか?
今井一光 (土曜日, 09 4月 2016 20:23)
ありがとうございます。
花押は権勢威厳と責任の所在をハッキリさせるための印証ですので
寺従事者の書面にはそれらは必要ありません。
拙寺代々の書面に後代は価値を見出せなかったか殆ど残っていませんが
「花押つき」サインについては皆無です。
当流の花押といえば顕如さんの御文を思い出しますが
法主の認証として御文の最後にはよく記されていました。
別人野村 (水曜日, 27 4月 2016 16:41)
初めまして、私も野村と申します。今私のルーツを探していて調べているのですが、江戸の羽田村(現東京)の寺の墓には野村八兵衛、久右衛門、文左衛門と記載されていますが、江戸時代に寺が消失し過去帳が消滅していて先のルーツが分かりません。
何方か判る方がいませんか?
今井一光 (水曜日, 27 4月 2016 18:49)
ありがとうございます。
過去帳や文書そして家中年配者から断片的な「ヒント」を得て
殆ど「推測の域」で進めていくしかないのがルーツ探しです。
あまりアテにはなりませんが、古い家でしたら家紋の共通性が
検討できるぐらいだと思います。
日本全国野村姓数ある中、それらを結びつける確証はなく、ご先祖様のかつての
動きを想像するほかはないと思います。
ただし別人野村様の記しました野村八兵衛さんは江戸期真田氏の沼田藩に
その名があります。他にもその一統を推測できる「野村」もありました。
また、文左衛門となると羽田村より少々多摩川の上となる地域(川崎市多摩区あたり)
で地域有徳人として多くを寄捨した人物としてその名があるようです。
同一人物かどうかは全く不明ですが、墓碑に伝わる没年等に矛盾が無ければこれから
大いに探求してみる楽しみはあるかと思います。
別人野村 (木曜日, 28 4月 2016 17:12)
いろいろ有難うございます。
今野村家の家紋について調べているところです。ご先祖様の家紋はまんじ「卍」ですが、この家紋は蜂須賀子六が使用していた家紋と分かりましたが、蜂須賀家と野村との関係が分からいので困っています。
今井一光 (木曜日, 28 4月 2016 21:42)
ありがとうございます。
卍紋は古い文様で、家紋として採用する家は広くあります。
無数に拡散した日本人社会にあって特定の「家」との関連性を見つけ出すことは
難しいかもしれません。
拙寺にも野村家二流ありますが、家紋が違っています(両家とも卍ではございません)。
また、100%ご先祖様が同一とわかっている家で親戚関係にある家同士であっても
現在の家紋が違っているという事も見られます。
この傾向は明治の「平民苗字必称義務令」以来これまでの名だけで通していた
殆どの国民が苗字を名乗り、それに伴った流れとして家紋があったわけで、
その庶民性は100年程度と歴史は浅く、当時の「決定」も無根拠のものが大多数だった
ようです。
そして、ある日突然分家別れした家が違う家紋を採用することもあります。
私の考えを押しつけることはできませんが、以上の理由から家紋からルーツを遡ることは
難しいことだと思います。ヒントにはなりますが・・・
特に野村姓の場合は近江野村を真っ先に思い出しますので原点はこちらかな?と
思うところがありますが、往々にして「名乗り」というものの発祥は「地名」からのものが圧倒的(どこそこ の だれだれ)でその「どこそこ」を苗字にすることが多かったようです。
地道にこつこつと文書をあたってそれでも「推測」「憶測」の域を出ないというのが現在のルーツ探しということになるでしょう。
時代の流れとともに「人がかつて存在した」ことすらも消えていく無常を感じます。
資料の喪失という点からも無意味な「人と人」の紛争は相当のダメージでした。
空襲という恣意的な消滅を招き培ってきた文化も伝承も消し去ってしまいました。
100%の判明はもはや諦めて、集めた資料からの類推を子供たちに伝承していけばいいのかと思います。
別人野村 (月曜日, 02 5月 2016 10:37)
野村の姓を調べたところ、川崎小杉に居ました「八百八橋の野村文左衛門」とか馬込の「旗岡八幡神社」脇の「野村肥後守綱定」さんとは繋がりが有りませんでした。
徳島大学附属図書館の「蜂須賀データベース」では家臣の中に野村の姓の者が三名いまして、蜂須賀家と関係と思われる理由は家紋が「卍」で菩提寺の宗派が同じで有ること。
野村の姓は近江国浅井郡野村郷(滋賀県)をルーツとすると思われ、蜂須賀子六の菩提寺である愛知県あま市と滋賀県長浜市とは近い距離にある。何らかな繋がりが有るのでは無いかと私の推測します。
今井一光 (月曜日, 02 5月 2016 10:52)
ありがとうございます。
かなりの進展がみられましたね。
一所懸命の先祖伝来の土地が戦乱のど真ん中になり、一統が敵味方に分かれたり
離散、流浪して新たな家を興すというのが戦国期の家の特徴だと思います。
今後の研究発展を願います。
野村幸一 (月曜日, 27 6月 2016 23:40)
こんばんは。石山退去録はどんな内容かご存知ですか?石山合戦の配陣図というのを歴史関連の本で見たことがあるのですが、本願寺側に野村一角という名前がありました。石山退去録に何かルーツの手がかりがあるのか?と気になりました。
なかなか墓参りに行けないのですが、近々行こうかと思っています。
今井一光 (火曜日, 28 6月 2016 20:20)
いつもありがとうございます。
野村一角という人物については見落としたというか知りませんでした。
今、ちょうど手がふさがっていますので数日中に近江「野村」について
ブログにて記したいと思います。
野村幸一 (火曜日, 28 6月 2016 20:49)
ありがとうございます。楽しみにしています。
その野村一角、配陣図では見ますが検索しても何も情報が出てこないのです。特に名が知れていない人物のようですので直接の先祖かどうかはわからないですがどこかで繋がる人なのかな?とワクワクしています。
今井一光 (金曜日, 01 7月 2016 02:43)
ありがとうございます。
まったくの初見で驚いた次第です。
6/30 7/1に参考になりませんが記してみました。
野村幸一 (金曜日, 08 7月 2016 17:21)
こんにちは。非常に面倒なお願いなのですが、野村家の過去帳の作成は可能ですか?初代の庄右衛門から没年、戒名、俗名等判るとありがたいのですが…相当な人数になってしまうので全てではなくても良いのですが。いかがでしょうか?
20年くらい前に一度ルーツを調べて系図本を作成したのですが私の次の世代以降を書き足す余白を使っておかなかったので改めて調査も含めて作り直す予定です。
今井一光 (金曜日, 08 7月 2016 21:55)
お世話になります。
過去帳からわかる範囲でピックアップすることは可能です。
お時間を少々いただくことになります。
ただし完璧なものは期待されない方がいいかもしれません。
過去帳にはかなりいい加減な記述がありますし、
今となってはわからないところがたくさんあります。
8月くらいまでには整理したいと思います。
というかかなり前に整理したものがありますのでそれを
一旦ファイルから探し出して追記する程度の作業だと思います。
以上よろしくお願いいたします。
合掌
野村幸一 (金曜日, 08 7月 2016 23:49)
ありがとうございます。お手数おかけしますがよろしくお願いします。
野村幸一 (火曜日, 12 7月 2016 22:22)
大澤寺縁起の顕如上人画像を拝見しました。今井権七の近くに野坂一学って名前を見つけました。野村一角だったり野坂一角、野坂一学だったり…これだけ似て非なる名前があるとどれが真実なのか調べるのは並大抵ではないと思いました(苦笑)
記録として残る資料は当時に書かれた物ではないようですね。インディジョーンズのお父さんの聖杯探しのような感じがしてきました。
今井一光 (火曜日, 12 7月 2016 22:35)
ありがとうございます。
ご指摘の通り、その件は決してあり得ないことではありません。
当時は漢字という視覚的なものよりも音として耳にしたものを
あて字にすることが多いということで一角-一学の誤差は大したことはありませんし
古文書に写し違いなどヤマほどあります。
よって複数の文献とその出典の古さというものが信憑性を高めますね。
面白いところです。
野村幸一 (火曜日, 12 7月 2016 23:38)
可能ならば石山合戦の1番古い記録を調査してみたいです。また、可能な限り遠くの先祖までで辿ってみたいです。
野村家の家紋は丸に細九枚笹ですが、調べると縁起の良い竹笹なので商家にも好まれた家紋だと書いてある記述を目にしました。なので、今の家紋は相良へ落ち着いてから使用し始めたのかな?とも思っております。
今井一光 (火曜日, 12 7月 2016 23:40)
ありがとうございます。
そこのところは不明ですね。
私はもっと古い時代からのものだと思いますが・・・
野村幸一 (水曜日, 13 7月 2016 00:32)
それ以前から使用していたとしたらどこかにヒントがあるかもしれませんね!わからないところですが、探究心が燃えてきます。
今井一光 (水曜日, 13 7月 2016 00:45)
姉川の「野村」をその観点で歩くことをお勧めします。
野村幸一 (火曜日, 23 8月 2016 09:53)
お世話になります。帰宅後、庄右衛門やその家族の没年没年齢などから若干の欠落はあるにせよ、系図が繋がりました!あと、身内であると思われる人物もあったのですが関係性がわからないので系図に組み込むことは断念しました。
ふと思ったのですが、野村家に限らず大澤寺で1番古くから残るお墓はいつからのものになるのでしょうね。大澤寺に歴史があるので創建期からのお墓も残っているのかなと思いました。
野村家の墓所は再建とあったので、江戸期からの古い庄右衛門家のお墓はもう無いのが残念です。
今井一光 (火曜日, 23 8月 2016 10:36)
お世話になっております。
墓石に使用される石材はこの辺りでは大雑把に伊豆石という石材が使用されますが
素材によって質はピンキリです。
安価なものは完全に風化して砂状になってしまうものもあります。
硬度のある高価なもの以外の中程度のものでも風化劣化が顕著で100年以上も経てば
風化してきます。
昔でいう当主の威厳として「墓を建て替える事」は専らの自身のアピールです。
よって墓を積極的に更新したのだと思います。
墓を更新したり新しく作ることは家を率いる家長の責任でもあったわけです。
よって庶民レベルの古い墓はそうは残らないのかと思います。
室町・鎌倉期の古い墓が残っているのは当時は品質のいいものを使用していたということそして墓碑を建立する者には財力と権威があった人に限られていたことがうかがえます。
当家の墓碑も江戸期に改変されています。
野村幸一 (火曜日, 23 8月 2016 14:02)
納得しました!あと、江戸時代なんかは火葬ではなさそうですし、家のお墓というより個人墓が多いのか?とも思ったりしました。ネットで見ると昔の庶民の土葬は山の中に埋めたとか書いてありました。
大澤寺の長い歴史の中では檀家の数も相当な人数になると思います。火葬以前は近くの山へ埋葬して墓参のための墓碑をお寺の境内に建立したのかな?と想像して興味が湧いてきます。
今井一光 (木曜日, 25 8月 2016 10:33)
ありがとうございます。
土葬墓は今は改修されましたが相良海岸や各地区で管理している山の墓所に点在していました。財力の有る者は火葬、そうでない者、子供、行旅行き倒れ、流行性疾で亡くなった方は土葬というのがだいたいのスジ。仰る通り「現場」の墓碑と寺境内の墓碑と両方があったとは思われますが時代を経て火葬が増えて更新され「現場」が消えて行ったのでしょう。
別人野村 (火曜日, 14 2月 2017 16:56)
いろいろ調査したところ
我野村家は明治以前まで羽田本町の菩提寺(自性院)に在り、明治以後に現在の寺に異動
ことが分かった。
大田区役所の古文書を調査したところ、羽田には、「平治元年(1159)、源義朝の没後、平氏に敗れた源氏の落ち武者7人が羽田浦に土着し開村(中村町)したという里伝」がある(羽田史誌)。戦前の中村町の住人の中に野村姓を名乗る人々が住んでいた。
戦後進駐軍によって中村町の住人は強制的撤去され、現在は羽田本町には野村の姓の住人は居ないようです。
また古文書(北川家古文書)の中に野村家のご先祖さまの名前が記載されていたことも分かり
調べを続けております。
今井一光 (火曜日, 14 2月 2017 20:56)
ありがとうございます。
「源義朝の没後」とは驚きです。
源家系の関東下向のグループがいてその歴史伝承が東京の多摩川域に
残っていたということですね。
そして公権による強制移住の件は歴史調査をしているうえで毎度腹が立つ
ところです。古い村落街区を壊してしまいますからね。
戦時中の空襲を想定しての強制疎開に木造家屋撤去の例を思い起こします。
地元の歴史文書にお名前が出て来るようでしたら他の角度からの調査も
期待できますね。
野村幸平 (日曜日, 18 6月 2017 04:29)
はじめまして、おそらく(というか間違いなく)野村庄右衛門の血筋の者です。
最近相良の親戚から聞いた話によると、
私と、コメント欄にある幸一さんとは曽祖父が同じ豊太郎のようです。
また、幸一さんの祖父庄十と私の祖父幸雄は腹違いの兄弟のようです。
詳しくブログで取り上げてくださりありがとうございます。
先祖のルーツについて知ることができ、興奮しております(笑)
今井 一光 (日曜日, 18 6月 2017 09:33)
ありがとうございます。
個人情報を羅列するのは憚られますが・・・
仰られていることから推察するにきっとどちらかで
お会いしているのではないでしょうか?
また昨日も墓参に参られた方がいらっしゃった旨お聞きしています。
お気軽にお参りください。
野村幸平 (日曜日, 18 6月 2017 12:00)
ご返信ありがとうございます。
はい、きっとお会いしているはずです。
大変お世話になりました。
昨日墓参りに伺ったのも私です。
今井 一光 (日曜日, 18 6月 2017 12:18)
ありがとうございます。
御当家一流の幅の広がりと奥深さに感服いたします。
またよろしくお願いいたします。
野村幸一 (水曜日, 23 8月 2017 18:02)
こちらのページはしばらく覗いていなかったのですが、幸平さん。。幸雄さんのお孫さんですか!
幸雄さんの幸の字を受け継いでいらっしゃるのですね。私はたまたま同じ字です。
幸平さんと一度連絡取れないものでしょうかね。
野村幸平 (水曜日, 23 8月 2017 21:06)
幸一さん
初めまして、幸平です。
今日メッセンジャーに何かメッセージ送っていただきましたかね??
一度届いたのを見かけましたので、もしやと思いこちらにコメントしました。
今井一光 (水曜日, 23 8月 2017 21:09)
面白い展開になっているようですね。
野村幸一 (水曜日, 23 8月 2017 22:12)
はい!もしかしたら…と思われる野村幸平さんへメッセージ送らせていただきました。
似顔絵がありますよね?
私は野村庄右衞門の名前でフェイスブックやっております。
野村幸一 (水曜日, 23 8月 2017 23:43)
こちらのブログのおかげで親族と出会えました。ありがとうございます。
今井 一光 (木曜日, 24 8月 2017 07:35)
楽しく拝見させていただきました。
野村幸一 (金曜日, 01 9月 2017 15:21)
当家の庄右衞門ですが明和期には新町の庄屋と記録にあり、その後の天明6年には相良町名主(新町、前浜、市場)だったようです。教育委員会の長谷川さんにしつこく質問して非常に申し訳なく思っていながらさらに質問してしまいました。
どうも、当時名主をやっていた家が相良から転居していて資料がほとんどと言っていいほど残されていないようです。野村家は火事にあったとも聞きますし…。
でも、とことん探求の手は緩めません
その昔、大澤寺今井家に野村家から嫁に行ったとかあったら面白いですね。
今井 一光 (金曜日, 01 9月 2017 15:41)
ありがとうございます。
ひとえに田沼失脚が転機だったでしょうね。
推測ですが、幕府の田沼資産処分の命は苛烈を極めたといいますので
それまでの田沼御用商人の資産へも及んだかも知れません。
史料がないことでハッキリしませんが、史料が残らないということもある意味
異常ですね。
大きな火事も数回にわたって相良で起こっていることも確かです。
これからも調査継続いただき判明したことがあればお報せください。
別人野村 (月曜日, 25 9月 2017 09:51)
調査を行いました。
大田区区役所の情報センター内に「北川古文書」の中に宗門別御改(現在の戸籍)に我が
野村家のご先祖さま五家の氏名の人が1843年(天保14年)に記載されていたことが分かりました。また野村の姓の語源は、野の中に発生した村とされ。この夏に滋賀県近江八幡市、東近江市、浅井郡そぜぞれの野村町に出掛けて来ましたが、近くの墓地やお寺を周ったが野村という姓の人は居ませんでした。今後も我が野村のルーツを探し続けます。
今井一光 (月曜日, 25 9月 2017 15:40)
かなり精力的に動かれていますね。驚きです。
発祥地としても分散消滅するのは歴史の世の常で致し方ありませんね。
滋賀県の野村姓でいえば何故か「伊香郡高月町柏原」に集中しているようです。
浅井の小谷城からも近い場所です。
やはり近江出自伝承の当地「布施家」「増田家」はこの周辺から出たという説もあります。
別人野村 (木曜日, 28 9月 2017 12:53)
有難うございます。
機会が有りましたら、今度「長浜市高月町柏原」まで行って来ようと思っています。
今井 一光 (木曜日, 28 9月 2017 18:53)
私もその辺り大好きな場所です。
どこかですれ違うかも・・・
ありがとうございました。
横須賀野村 (水曜日, 10 6月 2020 07:56)
たまたまこの欄を拝見 祖父祖母からの話や 我が家の古文書などから近江野村庄出
であり「覚書」から京極家や堀家へ仕え」明治維新には飯田堀家家臣(家老)であった事など古文書の中から知りました 判読できない古文書などありますが 野村伯耆守などの古文書などもあった様に思えました 少し調べてみたいと思います 野村庄については 源姓 野村正定(俗名善左衛門)とありました 生駒氏との関連も記載されてあるようです讃州丸亀の方へ供仕りとあるのでこの時点で野村庄を出たのかも知れません
今井一光 (水曜日, 10 6月 2020 19:34)
ありがとうございます。
古文書の存在からどうやら横須賀野村さまの御先祖は近江出自については固いところですね。ちなみに代々貴家家に伝承する宗旨はどちらでしょう。
時間も経て、その辺りはあまり関係ないところとも思えますが・・・これも参考ですが家紋などもお聞きしたいところです。
横須賀野村 (木曜日, 11 6月 2020 08:11)
お返事があり 嬉しく驚きました
今後も少し具体的に詳しく調べますが 今回のおたずねについては
家紋は「くぎ抜き」
宗旨は「浄土宗」
沢山の法名の入った操出位牌や何冊もの過去帳があるのでその辺も調べてみましょう
お返事感謝
今井一光 (木曜日, 11 6月 2020 08:55)
ありがとうございます。
「何冊もの過去帳」の件、調査対象がたくさんありそうで楽しみですね。
今後の進展と発見をこころよりお念じ申し上げます。
横須賀野村 (金曜日, 12 6月 2020 08:00)
私老境に至るまで江州野村については維新時の信州飯田程の関心が無かったのですが
我家覚書より「野村氏元来江州野村也元祖不分明生駒正則雅楽 ?江州住人の時先祖
五代以前野村善左衛門正定 ?正則幕下?太閤秀吉公?が楽?供仕り讃州丸亀云々・と
ありました古文書は難読不十分です。できれば江州野村の菩提寺も分かれば参上したいです。因みに我が家の最も古い法名は赤赤(一文字カク?)相院殿正雲山琢居士1629・6・27 58歳とあります この方は江州野村のどこかの菩提寺におられのかしら
この時代は江州野村の頃でしょうか 生駒正則讃州出までは野村庄在住なのでしょう
ありますが
今井一光 (金曜日, 12 6月 2020 08:51)
ありがとうございます。
単純に「江州野村」を考えますと滋賀県にはその「野村」の地名は各所にありますね。
私はどうしてもそれを聞くと姉川近くの「野村」を意識してしまいますが、まずは各野村周辺の浄土宗の寺をあたって見るのも一考。廃寺になっていないことが前提で、もし過去帳が残っているのでしたら住職に頼んで調べてもらえればいいですね。
問題は寺の過去帳が残っているかですが、残っていたとしても見つけ出すには相当の根気がいるでしょうね。少なからず話を聞くことによって何らかのてがかりを得られるかも知れません。ただし宗旨替えをされていないということが大前提ですが・・・
御先祖が戦国末期に動いた記録が残るだけでも奇特と思います。
横須賀野村 (土曜日, 13 6月 2020 07:55)
色々ご助言有難うございます 私は江州野村といえば小谷城下だけと思っておりました
浄土宗の法名ばかりの過去帳なので多分現在まで宗旨替えはなかったと思います
もっとも一族の中には宗旨替えの法名を持つ方も散見します
諦めていたルーツの江州野村庄が身近になっただけでもうれしいです
またここのページにも立ち寄らせてください 一先ず落着の感ありです 感謝
羽田野村(別人野村) (水曜日, 17 2月 2021 09:11)
その後の調査報告 野村家本家18代目の羽田の菩提寺「自性院」に五輪塔「寶篋印陀羅尼塔」基礎右面「野村八兵衛尉善□明房 享保五庚子年十月三日と有り
施主名の中に分家である長左衛門、 治左衛門、久右衛門、文左衛門の名前が記載されていた。俗名野村丹後守とも言われていた。寺は過去に2度の焼失より過去帳も無くなり、なお本家の基壇には左卍の家紋があり、家紋を知らべた所卍の家紋は蜂須賀家(徳島県)の家紋であり、家臣の中に3名の「野村」と名乗る人物が居ました。調査続行中
今井一光 (水曜日, 17 2月 2021 20:11)
羽田野村様 ありがとうございます。
蜂須賀の当初からの家臣とすれば美濃尾張あたりの発祥も推察されますね。
調査の進展があることは楽しいことです。
羽田野村 (日曜日, 26 12月 2021 08:55)
その後の調査報告、ネットで「後北条、牛頭天王」(羽田神社に祀られている)を検索したところ、八王子城と後北条について清水中世研究所の調べでは下恩方村の光源院(信玄の4女桜姫の墓が有る)の一廓に野村喜兵衛貞秀の供養塔「宝筐印塔」(野村豊後守高貞―野村左衛門尉貞常―野村喜兵衛貞秀)が我が野村家本家に残る供養塔と類似していると思われる。野村氏は徳川をはかばり多摩川の上流に移り、江戸幕府の目をさけるなど何らかの理由で羽田(多摩川の下流)に帰農し移り住んだのでないでしょうか? 今後も調査継続中
今井一光 (日曜日, 26 12月 2021 18:26)
ありがとうございます。
根気と時間を要することでその調査の困難さは計り知れません。
興味深い光源院の情報も記憶にとどめておきたいと思いました。。
羽田野村 (月曜日, 27 12月 2021 08:29)
間違えが有ります。武田信玄の4女の名前は桜姫ではなくて松姫でした。何時か光源院を訪れてみて、また報告をします。
今井一光 (月曜日, 27 12月 2021 08:53)
ありがとうございます。
了解しました。