すずさんは私の母方、祖母です。
当ブログ「墓場放浪記 徒然」でも記させていただきましたが、小柄で関東大震災の時はたまたま仏壇の前に居て崩れた屋根との隙間で九死に一生を得た人です。「阿弥陀さまにたすけられた」と語っていました。小さなすずさんからの遺伝で私も子供たちもずっと背が伸びなかったのかもしれませんが、おかげで機敏に動けています。
すずさんは小田原の漬物・かまぼこ屋の老舗「みのや吉兵衛商店」の長女でした。真宗門徒の「高浦家」に嫁入りして筋金入りの門徒となった人です。確か4~5歳の頃、城山玉傳寺だったと思いますが母とすずさんに連れられて行った、みのや家法要でお経の最中に同じ年頃の子供らと馬鹿笑いしてはしゃぎまくり、すずさんに「どっちかられた」ことはつい最近の様に覚えています。
確か法要後は大雄山の「みのや観光センター」でお斉がありまして、そこで初めて舐めた日本酒のマズさが以後の私の酒を嫌悪する人生を決定付けたかも知れません。半世紀近い昔の話です。
父(前住)は「先生、先生」と言われていました。南町の家に社長の娘さん(伸子氏)を招いて勉強を教えていました。
後世私も学生時代に久野1号古墳近くの社長宅にて高校生の御曹司の家庭教師を二回ほどしました。
二回でお役御免になった理由はやはり私の能力不足だったと思います。スグに別の商店主を紹介されてそこの御曹司の受験勉強の手伝いをしました。
おかげさまでちゃんと大学に合格しました。
ご縁も薄くなりましたが、そんなワケで当家の正月は今でも「みのや」で仕入れたおせち料理が並びます。
さて、すずさんに「近江浅井の末」という談がありました。
その頃は意味、理解不能でしたが、今考えれば近江の地にはつくづくご縁があるのだと感じる次第です。
またそれはどちらの皆さんのご先祖様にもいえることでしょうが信長の一生にそれぞれ色々な立場から翻弄させられまくったともいえるかも知れません。
浅井吉兵衛→鈴木吉兵衛と苗字を変えて美濃に渡ったというのは、昨日のブログで触れましたように名の変更は敗者の処世術です。
浅井家が近江から駆逐された信長最盛時代はお尋ね者のグループですので名を伏せて逃げるのが常套。
今でも「犯罪者」「逃亡者」は偽名を使って逃げるのは周知のことです。
当家開祖も一目散に遠州へ下ったものです。
養源院は浅井長政の院号から名づけられたお寺。
三十三間堂の隣のこじんまりしたお寺で淀殿創建、焼失後、お江が再建しました。
現在は浄土真宗遣迎院派といいますが、真宗の「お東」や「お西」の教義とはかなり違っています。
新しい陣羽織を汚さないように慎重に丁寧に扱ってケチと呼ばれた成瀬正義が三方原の斥候に出て武田方に討って出るのは得策でないと家康に上申した鳥居忠広に「腰抜け」と言い放って大喧嘩になったといわれますが(湯水の行水)その鳥居忠広の兄鳥居元忠が関ヶ原の前哨戦の伏見城で壮絶な籠城戦の後、切腹しました。
そのときの床板が「血天井」として寺に伝わっています。
その養源院は成伯という僧が開山ですが浅井一統ですね。
その兄に浅井吉兵衛がおりこの寺に位牌が残っているそうですが「美濃屋の吉兵衛」との関連はわかりません。
画像は2010年の大澤寺京都バスツアー。
あのときは私の趣味で皆さんを散々に引っ張りまわしました。
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