藤枝の田中城も平城で街区のど真ん中にあります。本丸跡は小学校で城らしき遺構はありませんが周辺には下屋敷跡・石垣・土塁・堀等多く残存します。
特に本丸を中心に放射状に広がる町割りは圧巻です。
平城とはいえ湿地帯に流れ込む大小の河川を天然の堀の如く入り組ませ城の難攻不落ぶりには定評がありました。
当時は高天神落城のあとも武田の橋頭保として機能し武田家滅亡と同じ頃まで頑張り通した城です。
また藩として明治まで残存したため町割りも良好に残っているのだと思います。そもそも田中城の命名は武田の城となってからです。今川時代は「徳之一色城」。
永禄の頃にお隣の小川城から長谷川正長一統が入っていました。
永禄十三年(元亀元年)1570、義元亡き駿河を切り取る武田の猛攻に耐えきれず開城し徳川方に流れたことは昨日のブログで記したとおり。
武田時代になって徳川織田連合軍の猛攻に耐えましたが連携していた江尻城代の穴山梅雪の二心をきっかけに城将、依田信蕃は戦意喪失、説得に応じ開城しました。
高天神同様、今川→武田→徳川と数奇な運命をたどった城です。
家康が駿河久能山城から舟にて田中城へ遊び、鯛の天ぷらを食べて食あたりし、それが死因となったと言われています。
※以前行った際、下屋敷の池の菖蒲が見事でした。
GW辺りが見ごろかと。
園内散策無料で駐車場もあります。
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