最近は子供たちは何処にいるのでしょうか。家の中でゲーム、最近では青年諸君においては「Twitterドハマリ症候群」なんぞいう人たちの存在も耳にします。
私のブログ更新に時間を割いている姿も傍から見ればかなりお寒く見えるそうですが・・・まぁ人のことは言えません。
それにしても子供たちは墓地、寺で遊ばなくなりました。まぁ管理者として冷や冷やしなくて済むのでそれは楽なのですが・・・
夏も蝉取りに子供がまったく集まらなくなりましたね。
子供が寺で遊ばなくなったのと今の「少子化」や「ぶら下がり社員症候群」といった社会の沈滞ムードはハッキリとは言えませんが関係があるのかなと思います。
御法事の無いまったりとしたそして岡崎で罹患したであろう風邪療養の片手間に昔を振り返ってみます。
私の生まれは神奈川県の小田原市です。ちょうどお城の南側、海岸とお城の間くらいの場所で育ちました。平成輔の墓所は母親の懇意にしていた美容室の隣にあってよくこの墓地の狭い区画で飛び回っていました。おもちゃみたいなバットとボールを持って自転車でのし回り街路に仲間を集めては野球(のぼーる)に木の独楽のぶつけ合いにメンコ。
小学六年の夏休みの研究課題がこの平成輔でした。母親のミノルタの一眼レフを持ち出して撮影し、図書館(星崎記念館)に通ったことを思い出します。私の墓場放浪の原点といっていい場所です。
この周辺はお寺がとても多く遊び場には事欠きません。クワガタの捕れる秘密の木が御幸が浜の近くの寺にありましたので夏場にはよく顔をだしたものです。
母方の祖母「すずさん」には近くの菩提寺、高円寺というお西の寺によく連れていかれました。私の「合掌」の原点はここです。すずさんのイメージと言えば御内佛の給仕と墓前での合掌の姿でした。厳しくあったすずさんの晩年は私の呆れ果てるようないい加減な性格に寂しい思いをさせてしまったのかと今となっては反省しています。しかしすずさんが時間をかけて作った各種お天(寒天)の数々やおはぎの味は絶品で忘れられません。母親がその味を引き継いでいましたが母親はもはや炊事場に立つことはなくなりましたのでそれを味わうことはできません。そして何よりすずさんは「死」というものを教えてくれました。
その高円寺も隣の居神神社も国道一号を渡っての大久寺も私の行動範囲の一部でした。墓地遊びの主は缶蹴りや「めちゃぶつけ」でした。
日が暮れるまで墓場で遊んだものです。
御法度の2Bや爆竹、ロケット花火の水平打ちさえしなければお寺は黙認してくれたものです。ただし当時の大久寺の住職には箒で追い回されたことを憶えています。捕って喰わんとするが如く住職の恐ろし気な形相に震えあがって逃げ回ったものでしたが境内で大騒ぎするのだから怒られて当然でしょう。またちょっとした怪我もあったし他者への迷惑も甚大だったと思います。
子供時代に於いて墓地には色々なことを教わったのです。家が寺であるとか将来その寺を継ぐとかまったく関係なしに。
やっていいこと悪いこと、様々な人間関係、尊ぶべきもの、頭の下がるもの、そして導いてくれた人の死、はかなさと無常を知ります。また人は他者にブチ怒られてまた大失敗して成長するのだと。
自分なりに答えを導けば、推奨すべき子供の育て方(勉学云々は抜きにまた我が子の接し方が決して上手くいっているとは言いません)を一言でいうならば(特に孫には)「背中を見せて死ぬ」ことだと思います。
私にはまだ見せられる澄んだ心も背中を見てもらう孫もおりませんが・・・
ああ、そういう意味ではそこまで自分自身をお育ていただければこれもまた「幸せ」なのだと思います。そして反省と感謝の気持ちが少しでも芽生えてもらえれば、すばらしいことだと思います。
個人的には佐和山城本丸跡から望む彦根城が渋くて好きですね。
佐和山城搦め手は境内地で墓地になっています。ゆっくり散策できれば新しい発見がありそうです。雪が舞う登城口ですれ違ったのは若い女性一人。さすが石田光成さん。
厚い熱いファンがいらっしゃる。
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