本多雅人師(東京葛飾 蓮光寺住職)のお話を聞きに静岡別院へ。
お話の内容を少し・・・
我らが「不幸せ」を感ずるのは自分の都合にあわないことの遭遇に際してそう考えてしまうワケでありその考えが続く限り苦悩は絶対に無くなることはありません。そのことを見抜いたのが仏教です。仏教はすべてのものが変化すると定義しましたがある種の事柄を除いて・・・いわば一つだけ変わらないものが あります。それが生死無常(しょうじむじょう)、業縁存在(ごうえんそんざい)です。それらを知らないで、気づかずに雑多なことに気を取られて生活するいや生活せざるを得ないわれらがあります。
それを愚と呼びます。
「愚かさに気付かされて新しい生き方が見えてくる」のです。(そのことを往生といいます 往生は人が亡くなることだけの意味ではありません) 愚かさとは「無明」のことで気がつかないことです。あるいは知ったつもりでいることでもあります。
~その「知ったつもり」は坊さん(小生のこと)が陥りやすいところです。愚といいながら「ホントはオレは賢い」なんてね。「賢い中でひょっとするとバカかもしれないのかも等々」賢さぶって「愚」を吹聴したり・・鼻持ちならない輩ですね。~
でも本当のことを言うとみんな同じなのです。
業縁存在と呼びます。 われらはどうにもならないことをどうにかしようと思って不満をもち、どうなるかわからないから不安をもって、苦悩や迷いが生じます。そのなかで人間の次におこすことはといえば
(たとえば津波や危機に遭遇して)
その当事者でなければ
①(時間が経過すれば当初の気持ちは)薄れる
当事者であれば
②あきらめる
それ以外であれば
③9.11の様に(ツインタワービル以降の様に)報復する・・・
~他者に責任を押し付けてとりあえず安心したがる~
の3種類です・・・。
歎異抄13章の
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
末灯鈔の 「故法然聖人は、
『浄土宗の(浄土の教えをむねとする)人は愚者になって往生す』・・・」
を引用されていました。
われらのスタンスとして「安心して迷える」気持ちを「愚に帰って 」
持ち続けること、気が付かされることが肝要でそれが真の信心による
御称名「なむあみだぶつ」であると。
また小生の「一所一處」と同様の見方も発見できました。
それを師は『生きる場』と称していました。
師は小生より二つは歳が若いですが気づかされるところ多々ございました。あたかもご飯粒を顔に付けたまま、ズボンのチャックを開けたまま
公道を歩いていて気づいたあとの恥ずかしさのような苦笑い的感情も
おこりました。
ありがとうございました。
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小山昭治 (火曜日, 14 2月 2012 17:32)
いい話を聴いてよかったですね。
自分を省みることができて
自分自身が救われるような気分でしょうか。
私は
いい話を聴くと「なるほど」「その通り」
と 思いますが
数時間後には元の木阿弥です。
百いいことを聞いても同じです。
そして悩み、悶々と暮らしています。
今では 忙しさにかまけて
聞くことすらしないありさま。
自分で 「私はそんな人間だから
当たり前」なんて往生を決めています。
今井一光 (火曜日, 14 2月 2012 18:27)
ありがとうございます。
私は最近、人の話を聞くことが好きになりました。
以前は「自分教」といって自分のことだけしか考えない自己中心的な振る舞いも平気でしてきたと思います。
サラリーマンをしていれば当然かもしれません、他人のことなど気にせずにがむしゃらに形振り構わず自己主張したものです。業縁存在であるが故でしょう。
しかしご縁があってこちらでお世話になってから数年、少しずつ修正されてきて今では第一のモットーが「人の話を聞くこと」になりました。またそうでなくてはいけないとも考えるようになりました。
それは仏法以外の些末なことすべてです。坊さんは案外その後者(些末なこと)を聞いていくことは気楽に実践できるのですが前者(仏法)を他者の口から聞いていくことが苦手なのかも知れません。それはそれぞれの坊さんの考え方、解釈があるからで致し方ないのでしょうがやはり持論主張しがちになった坊さんにとっては同じ立場の意見に違和感を覚えがちになるからでしょう。
しかしそのような姿はより良い姿とはいえないと思います。
よって私は法話の会には時間の許す限り色々と参加していきたいと思っています。また忘れないようにそこで聞いたこと考えたことはこちらに記していきたいと思います。
小山さんも「忙しくなくなったら」十二分に聞いてみてはいかがでしょうか。何か気づかされたらしめたものです。