当山大澤寺は愛知県岡崎市の岡崎教務所三十一組という地域ごとに区切った「組(そ)」に所属しております。
画像は各代住職が本山に依頼した御軸の一部です。箱には「本證寺末遠州相良新町大澤寺」とあります。
三州安城の本證寺は一向一揆の主寺。
一旦は廃寺となりましたが江戸初期に再興され当山もその「配下」に収まりました。
広い意味ではここ静岡は「三河門徒」の端くれといっていいのでしょう。
今でこそ交通手段が充実しておりますが、各種伝達、承認事項については当時は自身の足が主。
御先祖の御苦労の一端がうかがえられます。
いずれその中身をアップしていきたいと思います。
※「遠州歴史散歩」に
「城と戦国浪漫 shizuoka」ご紹介を加えました
高天神周辺の砦群更新しました
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野村幸一 (木曜日, 06 7月 2017 01:08)
大澤寺が本證寺の末寺になったのはいつ頃…という記録は残っていたりしますか?
今井 一光 (木曜日, 06 7月 2017 08:22)
ありがとうございます。
いつ頃という確たる証はありませんが、寺史料として本證寺下の名がある
古い書面があります。
成瀬藤蔵正義の奥さんの勒さん(釋妙意)が家康から正義のお悔やみとして提供
された木仏尊像を息子の釋祐傳に寄進していますが祐傳は本山から本尊としての
お墨付きを願主として依頼しています。
その際本山より出された証書に寛永十八(1641)に釋宣如(教如の三男)花押と
「本證寺下遠州榛原郡相良庄新町」の文字が見えます。
野村幸一 (木曜日, 06 7月 2017 13:27)
ありがとうございます。