16日の近江行は中止したものの、遠州は物凄いイイ天気。
駿遠に限っていえば、お盆休み期間中限定の降雨だったような気がします。
ただし農家の方たちは2日続けての夜間の大雨を「恵みの雨」と喜んでいました。
7月の盂蘭盆会法要での話の内容が「マインドフルネス」でした。その瞑想のスタイルを広隆寺弥勒菩薩の「半跏思惟」を倣おうということで紹介していました。
その弥勒さんは別のカタチで足を組んでいますが、それはともかく「背筋を伸ばして・・・」は不要、足も組まずに「楽な姿勢のみ」を推奨しました。
あまりにも有名なあの弥勒菩薩は、私が切手収集をしていた小学生の頃から存じ上げています。1967年発行の国宝シリーズで切手仲間からは人気でした。額面が15円したから今とは大違いです。私が少しばかりの知識を得たのも切手収集をしたおかげかも知れません。国立公園や国定公園の地名も覚えることができましたね。
あの手の国宝の仏像は奈良のイメージが強いのですが、この弥勒菩薩は京都の広隆寺にあります。
ただし信仰の中心は聖徳太子ですので、もともとの起源についてはかなりの古さを感じます(本堂が太子堂)。
そして何よりあのお寺のある場所の名。
それは京都に親しい方にとっては「それ常識」ってところでしょうが、中高の修学旅行生には難解難読でしょう。
なんといっても「太秦」を「うずまさ」と読みますからね。
別に映画のセットと撮影場所としても有名な場所ですが、やはりこの地を代表するものは広隆寺なのです(場所はここ)。
何故にして「太秦」をそう読むかはともかくその字面にある「秦」こそ聖徳太子時代に朝鮮半島から日本にやってきた帰化人の秦氏から付けられたということを示唆しています。そしてなによりこの広隆寺が秦氏の氏寺といいます(日本書紀)。
この時代は秦の始皇帝からの流れ説もある名門秦氏は我が国に渡来定住するや、あらゆる部門で技術革新に頭角を現して、おそらく政治世界にも勢力を誇っていたことが考えられます。
各地区に彼ら渡来系技術者は分散し、現在の日本人のDNAを構成するに至ったのだと思います。
渡来時期が聖徳太子の時代とすれば約1400年の時代経過。
まぁ現代人の体内に共通して流れているとみるのが正解でしょう。そういう意味からこの寺は日本人と仏教の起源を表する寺といえるかも知れません。
半跏思惟でお馴染みの弥勒菩薩像のある場所は霊寶殿と呼ばれる新設された薄暗い宝物館の中にありますが、その仏の前で「瞑想」「観想」するスペースがあります。決して大きいとは言えないその像の容姿を拝する価値は十分ありますが、この建物の中には他に圧巻の仏たちが多数並べられています。
古くてデカい仏像たちがその弥勒菩薩に対面していてそれらにも度肝を抜かされます。十一面の千手観音菩薩のデカさ(266㎝)と手の数、そして各手の持ち物。色々なモノを持つ手がニョキニョキと・・・
薄暗くてよくわかりませんがまるで携帯電話を持つが如くの腕があり、ニャっとしてしまいます。
じっくり家に帰って検証したいところですが、仏像たちはすべて撮影禁止。以前弥勒菩薩の指に触れて折ってしまった人が居たということで常時監視員が複数で見張っています。
よって最後の2枚は図書より拝借。
②③画像の仁王門前標柱のベース部はかつてあった宝塔の礎石と言われます。
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