城将の姓から見る「高天神崩れ」の推測
高天神史における地元著名な藤田清五郎(鶴南)氏による「高天神の跡を尋ねて」からこの城に関わる人たちを有名無名にかかわらずピックアップしました。今に続くこの地に伝わる家々の姓との繋がりの推測の端緒となればと思いますが何より高天神城に遇いまみえた人々をウェブ上に記すことによって彼らの生きた証としたい思いです。
「高天神の跡を尋ねて」 藤田清五郎 より
元亀二年辛未の二月十六日、武田信玄は二万五千余の軍勢を率いて甲府を発して駿河に進み、同二十三日志太の田中城に着した。
二十四日遠州に入り、能満寺山に築城して小山城と称え、続いて地の利を考えて相良城を築いた。
当時四方風を望んで武田氏に従ったが、菅ケ谷村の川田平兵衛、湯日村の中山是非之助は城主小笠原長忠の招きに応じて徳川氏に帰従した。
同月二十五日、武田信玄、高天神を攻撃するの報を聞き、城主長忠は直ちに使者、小笠原彦七郎貞頼が従士、相田又兵衛と伊勢治部右衛門を浜松へ馳せて徳川家康に報告した。
高天神城内では武田信玄来攻に備えて三月早々籠城の手配をしてそれぞれ部署を次の様に定めて守備の確保を計った。
本丸
大将 小笠原与八郎長忠 二十一歳 兵数五百余騎
武者奉行 渥美源五郎勝吉
是に従う主たる武将
福岡太郎八 村松郷右衛門 曽根孫太夫長一
木村弥兵衛 三井孫左衛門光忠
三の丸
大将 小笠原与左衛門清有 兵数二百五十余騎
武者奉行 丹羽縫殿左衛門
是に従う主たる武将
小笠原庄太夫盛高 小笠原清兵衛 小笠原作衛門興康等一族
丹羽五郎右衛門一族 松下助左衛門範久 村松郷八
野々山七左衛門 鈴木権太夫 中根日根之丞 鈴木五郎太夫
西の丸
大将 本間八郎三郎氏清
副将 同弟の丸尾修理亮義清 兵数三百余騎
是に従う主たる武将
丸尾三郎兵衛 丸尾五郎三郎 丸尾新五郎 本間源右衛門
本間五太夫 本間兵右衛門 小笠原治右衛門 大原新平
百々徳右衛門 佐和戸市兵衛 高岡七兵衛 山本与五右衛門
大河内孫右衛門 松島五平 西村八兵衛 朝比奈十左衛門
柘植八右衛門 村山八右衛門 市川門太夫 花井八郎右衛門
西村清左衛門 高岡弥五右衛門 高岡瀬左衛門 朝比奈新助
浅井吉兵衛 権田惣右衛門 福富市兵 岡本藤右衛門 杉浦源七郎
見野浦茂左衛門 杉浦一学 柴田四郎次 三井弥七郎 浅井五六郎
西郷市郎左衛門 岡本久弥
御前曲輪
大将 斉藤宗林 兵数二百余騎
副将 小笠原河内守長国
各士族組み合わせて主たる者
大須賀五六左衛門 伏木久内 永田太郎左衛門伝 馬淵半一
糟屋善左衛門則高 村松左近 村松五郎右衛門 杉浦能登郎
武藤源右衛門 匂坂半之助 斉藤権兵衛 斉藤左門 斉藤五郎七
村井太左衛門 安西越前 池田縫平 池田佐内 池田十内
浅羽次郎左衛門 梶川奥兵衛 漢人十右衛門 浅山吉兵衛
木村長兵衛 木村又右衛門 伊藤入道 戸塚九平 小嶋与五右衛門
小島武左衛門 市川門左衛門 荒瀬孫五左衛門 松下平八
犬塚市平 犬塚又右衛門 田中兵助 赤尾孫助 客輪平助
桜井源吉 浅田伊助 小川久助 桜井九郎右衛門
搦手門
大将 渡辺金太夫照 兵数二百五十余騎
副将 小笠原長左衛門義信
林平六
是に従う主たる武将
戸塚半弥 長坂新五郎 佐々安右衛門 川上兵太夫 佐京権左衛門
村上左太夫 宮地三郎太夫 森前右衛門 奥垣八内
追手池の段
大将 小笠原右京氏義 兵数三百余騎
副将 赤堀大学正信
是に従う主たる武将
川田平兵衛 川田平太郎 大石外記氏久 大石新次郎久末
小池左近 鈴木左内 小笠原久兵衛良忠 村田弥惣 今沢弥右衛門
海福岳兵衛 波切金右衛門 波切金十郎 村越半右衛門
長坂門三郎 山下七郎右衛門 野間与五左衛門(清水善兵衛)
今村新之丞 小島次郎右衛門 加藤伝次 鈴木九郎左衛門
浅羽角平 古川清右衛門 神野八郎兵衛 村井久右衛門
丹羽弥惣氏吉 牧野勘右衛門 八木勘左衛門 坂部又十郎正家
市川伝兵衛 前島金太夫 奥村仁左衛門 佐津川伝右衛門
竹田右衛門 柴田佐左衛門 戸田助左衛門 堀田九郎右衛門
堀田九八 大岡次郎太夫 小笠原与次郎 松島五兵衛
山中与五右衛門 星野新八郎 広田五左衛門 寺西市右衛門
近藤武介 門名七郎右衛門 松浦佐太夫 小柳津喜太夫 村松佐内
村山八右衛門
帯曲輪
吉原又兵衛以下組付二十五騎 弓銃卒三十人
遊軍
伊達与兵定鎮 中山是非之助の組付騎士軽卒百七十人
この外籠城の士
渥美重経 丹羽四郎左衛門 本間権三郎正季 浅井九左衛門
柘植又十郎 朝夷小九郎兵衛 匂坂牛之助 海福主税之助
小島武左衛門 戸塚左近衛門 宮地六太夫 朝夷左太夫
倉知加兵衛 牧伝兵衛 伊達藤十郎 滝弥之助 鮫島加賀
横井越前 坂部又蔵 永田太郎左衛門清伝 筧助太夫 高須武太夫
鷲山伝八郎 県刑部左衛門 幡鎌三平 福島十郎右衛門 福島河内
匂坂加賀 等
以上籠城軍兵二千余騎に及んだ。
これ等の軍勢は元今川家に仕えていた小身の武士で近辺を知行していた者もあり、或いは駿河より馳せ参じた浪士なども加わっている。
これら多くの者は掛川城攻撃の時、天王山合戦の頃、小笠原の配下に置かれ、この度亦家康より高天神籠城を命ぜられたものである。
その他の伝承
松林家
旧御前崎町の御前崎地区
「本家と七分家」本家は十四代目 分家で十一代目といいます。
伝承では今川時代の高天神城代小笠原家について遠州入りし
武田勝頼の介入で小笠原家が分裂四散したことにより御前崎の
先端部分に土着したとのこと。
斉藤家
旧御前崎町の白羽地区
「斉藤」と言えば高天神城御前曲輪、大将の斉藤宗林がいますが
その一族かも知れません。
三方原で討死した斉藤六郎左衛門宗林の墓は静岡市の宗林寺、
天正初期の御前曲輪の宗林は父子どちらかでしょう。
旧屋敷跡近く旧大東町中の満勝寺が旧菩提寺と推測されます。
小野田家
御前崎女岩(めいわ)区小野田一統
本家には武田勝頼朱印状が残ると聞きます。
榑林家